inaojiの日記

社会科教師OBの社会科系徒然語り

この雪の消残るときにいざ行かな:なぜ江戸や明治の知識人は和歌を身に付けていたのか

この雪の消残るときにいざ行かな:なぜ江戸や明治の知識人は和歌を身に付けていたのか

らんまん徳永教授が、万太郎の新たな旅立ちの時に、この歌の上の句を詠じた。

・「この雪の消残るときに いざ行かな」

すると、万太郎が下の句を詠じて返す。

・「山橘の実の照るも見む」

 

この歌は、大伴家持の歌。

「この雪の消残(けのこ)るときに いざ行かむ」
・春が来る前の、今積もっているこの雪がすっかり消えてしまわないうちに、寒さに負けずに出発しよう。」

 

「山橘の実の照るも見む」

・山橘つまり、藪柑子(やぶこうじ)の実が雪の白の中に赤く照り映える風景を楽しもう。この寒さの中でしか、この光景を楽しむことは出来ないのだから。

 

このような意味となる。
「らんまん」の中では、万太郎の意思で大学を去ることになっている。

史実とは違って、徳永教授(史実・松村任三教授)が悪者にならなくてよかった。

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大学を去った(追い出された)万太郎を救った青年

らんまんでは大学を去った万太郎。史実では、大学を追い出された富太郎は、当然借金の山に苦しむことになる。

 

その窮地を救ったのが、らんまんの「永守徹」。
史実の富太郎を救うのは「池長孟」。

 

富太郎は、三菱宗家の岩崎家にもかつて救われている。
そして、大学を追い出された後には、池長家に救われている。

これは、牧野富太郎博士の誠意が周りの人を動かしたのだろう。

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江戸・明治の教養人はなぜ和歌を身に付けていたのか

江戸期の学問と言えば、「朱子学」だ。

朱子学儒教儒学)の一形態であり、陽明学儒学の一形態。

 

現代人にとって、「○○学」というと、物理とか、数学とかいうものをイメージする。

だが、儒学朱子学陽明学は、いわば「心の学問」・「生き方の学問」

その批判から登場する「国学」も、同様に「心の学問」。

 

「心」「生き方」「道徳性」を問題とする学問なので、「歌」は、「学問」そのものなのだ。

 

「学問を究める」=「歌を窮める」

ことにつながる。

 

だから、江戸期や明治期の知識人、「心」を重視する「学問」を修めた人たちは、少なからず和歌にも通じていた。