鹿島の神は、タケミカヅチ。
自明のことと思われるが、何と古事記にも・日本書紀にも、常陸風土記にも鹿島の神が「タケミカヅチ」だとは記されていない。
いつ頃鹿島の神が「タケミカヅチ」と書物に書かれるようになったのか。
その書物は、何と言うのだろうか。
常陸の国風土記の那賀の香島大神 p41
・風土記は和銅6年713年の中央官命に基づく
・純漢文体
・藤原の宇合(不比等の子・鎌足の孫)と
・高橋虫麿が完了
風土記は、和銅6年の中央からの命令で各国でつくられた。
常陸の国も、この命令によって常陸風土記をつくった。
常陸風土記の完成に、深く関わったのが、藤原鎌足の孫で不比等の子で藤原式家の祖となった宇合。
そして、高橋虫麿が編纂に深く関わったとされる。
宇合が編成したと思われる部分 p42
・大乙上中臣□子・大乙下中臣部兎子等
・~神の郡を置き
・天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社、
・三處を合わせて、香島の天の大神
・因りて郡に名付く
・香取神宮の祭神である経津主神について
・『常陸国風土記』信太郡に普都大神として記述
宇合並びに、その命を受けたであろう虫麿がかかわったとされる記述に、鹿島の神の名は無い。
ただ、「香島の天之大神」と書かれているだけだ。
対して、香取神宮の祭神は、「経津主神(フツヌシ)」だと書かれている。
これは、どういうことだろうか。
・普都大神が天
・即ち高天原から降りて
・葦原中国を平定して後
・甲・戈・楣・剣、及執らせる玉珪を
・ この地に留めて
・白雲に乗って還って行ったことが記
・ その数行(省略分もあるが、)後に
・香島大神を遙拝して
・東海道を常陸路に入る記事あり
経津主神は、香取神社に武具や宝を置いて、自身は白雲に乗って高天原に帰った、と書かれている。
そして、もう一つの事実が書かれている。
『東海道地方から、関東(常陸)の国に入る人は、、香島大神(天之大神)を拝んでから、関東に入った。』
というのだ。
このことから、宇合や、虫麿は、香島の神を特定はしていないが、『香取の神より、香島の神の方が上』と解していた。
経津主神と武甕槌神は、古事記や日本書紀からみて、セットの神。
そうなると、経津主神より、神格が上なのは武甕槌(タケミカヅチ)神となる。
もしかすると、宇合や、虫麿はあえて明記しなくとも、「香島の天之大神は、武甕槌だ」と、捕らえていたのかもしれない。
だが、常陸国風土記に、「香島(鹿島)の神の名が明記されていなかった」という事実は、引っかかる。
では、武甕槌神の名が明記されたのは、どの書物からか。
・経津主神
〔是は磐筒女神の子
今下総國の香取神なり。〕と
・ 武甕槌神〔是は甕速日神の子。
今常陸國の鹿嶋神なり
古語拾遺は、
大同2年(807年)、大同元年(806年)とする説もあるが、
おそらく、平城天皇即位の「延暦25年・大同元年(806年)」以降の作。
つまり、常陸国風土記より、70年~80年後に編纂されただろう。
ここで、初めて、「武甕槌神が、鹿島の神だ」という明確な記述が現れる。
また、『先代旧事本紀』にも、鹿島の神は、武甕槌神だという記述がある。
先代旧事本紀は、
大同年間(806年 - 810年)以降~(904年 - 906年)の間に編纂されたと推定されている。
また一説には、807年 -~868年の間とする説がある。
つまり、「先代旧事本紀」は、「古語拾遺」と同時期、場合によってはさらに100年後の書物、と言うことになる。
この本にも、
『武甕槌神が鹿島神宮の祭神として明記』
ただし、筆者は、この本について次のように述べる。
・『先代旧事本紀』は平安時代の作といわれる
・信憑性の低い文献であると評価
・全体的に物部氏関係の記事が多い
・物部氏一族の者が編纂したという説が一般的
と、筆者は、「先代旧事本紀」の内容については、否定的な感覚を持っているようだ。
香島大神と武甕槌神 p45
・『日本書紀』『古事記記』『常陸国風土記』『古語拾遺』『先代旧事本紀』
・文献で、
香島大神そして
・鹿島神宮の祭神については記紀並びに『風土記』では
・祭神名無し
・鹿島神宮の祭神としての武甕槌神、
・『古語拾遺』(大同二年・807年に成立)以降
驚きの事実!
当初、鹿島の神は、武甕槌神と明記されていなかった。
何時ごろから祭神が武甕槌神・経津主神になったか。 p45
・何時の時点で
・国家神である武甕槌神・経津主神が
・中臣氏並びに藤原氏の氏神となっていったか。
・未解決事項が多い。
筆者は、何時の時点で、鹿島の神が武甕槌となったのか、
また、武甕槌神と経津主神が中臣氏並びに、藤原氏の氏神となっていったのかについては、未解決の部分が多く、「わからない」と述べている。
ここで、忘れて成らないのは、本来中臣氏は、物部の家来だったことだ。
丁未の乱で物部本家と、中臣本流が滅んだことで、常陸流の中臣氏が力をもち、中央の中臣に取って代わったのだろう。
ということで、本来なら物部の子分だった中臣は地位を逆転して、
中臣>物部、と成ったのだろう。
だから、香取より、鹿島の方が上、
「常陸に入るときは、鹿島の神を拝んでからで無いと、入れない」
ということになったのだと思う。
祭神について、いくつかの論点を紹介
・鹿島の祭神について
・『風土記』の
・「其處に有ませる天の大神の社•坂戸の社•沼尾の社、三處を合せて、惣べて香島の天の大神と稱ふ」がキーワード
・ この鹿島三社で香島の天之大神が神格を形成
筆者は、
鹿島の神は、在来の神であった、「坂戸神」と「沼尾神」と大和の神「天之大神」が習合したと言うが、「天之大神」が「坂戸神」と「沼尾神」を飲み込んだと考えているようだ。
さらに筆者は、志田諄一氏の説を紹介する。
志田諄一氏の説
・鹿島の神は土着の地方神ではなく、
・東国経略の拠点として、
・水運の根拠地・
物資の集積地である鹿島の地に
・大和朝廷によって創建された可能性・強い
・『常陸国風土記』信太郡の普都大神の登場する条を引用し、
・普都大神は、『日本書紀』に経津主神とあり、
・神代下には武甕槌神と葦原中国の平定に遣わされた神
志田氏は、鹿島の神は三柱の神が習合したのではなく、大和朝廷によって新しく創建された、つまり天之大神が、他の二柱を飲み込んだ、と言っているのだと思われる。
そして、香取の神がフツヌシなら、鹿島の神は、ケミカヅチでしょう、という理屈のようだ。
・『古事記』は神武天皇が賊徒平定に際し、
・建御雷神から与えられた剣の名を
・「布都御魂」と
・『常陸国風土記』に葦原中国平定のため
「天之大神」と普都大神が天降る
・『古事記』の叙述と関係あり、
・「普都大神」は本来劍そのもの
・『常陸国風土記』に普都大神があらわれてる以上、
・「香島の天之大神」といえば
・タケミカヅチノ神を指すこと
・当時の常識
・天の大神と、坂戸の神と、沼尾の神を合わせたが、
・香島の大神の主体、天之大神はタケミカヅチ(軍神)
タケミカヅチとフツヌシはセットの神。
本来、フツヌシは、フツノミタマという剣。
(タケミカヅチの持ち物)
だから、鹿島の神は、書かれていなくても、武甕槌神であることは自明
という主張のようだ。
・東国経営に加護を願うため、
・鹿島の地に鎖座
・『常陸国風土記』信太郡の条に
・榎浦津に置かれた駅家
・東海道に属す
・常陸国への入り口
・伝駅使たちが、初めてこの国に入るとき
・口をすすぎ、手を洗い
・東を向いて香島の大神を拝し、
・それから後に入る
当時の社会では、筑波のちょっと手前の信太郡までは、東海道だった。
そこから、常陸の国に入る場合、
駅家で、『口をすすぎ、手を洗い』身を清めてから、東を向いて鹿島の神を拝んで許しを得てからでないと、常陸の国に入ることが出来なかった、という。
鹿島の神は、国家神
このことから、確かに「 風土記に、鹿島の神の祭神名は、書かれていない」が、
当時、すでに「香島之大神は、国家神」であったことは間違いない。
となれば、祭神は明らかに「武甕槌神であることは自明」だ、という論理になる。
志田説 まとめ
・香島神宮の祭神は、
・4世紀~5世紀に始まった 大和朝廷の東国進出により
・物部系多氏が
・東海道方面から進出した際
・守護神として武甕槌神・経津主神を奉祭
・水運の根拠地・物資の集積地である 鹿島の地に
・大和朝代によって
・天之大神社として創建
・地元神である坂戸社•沼尾社と三社で
・「香島の天之大神」・一つの神格構成
・ その後、
・ 東国経略、蝦夷征討の進展
・天之大神社が単独で
・香島の天之大神を祀ることになる
・坂戸社•沼尾社は摂社となる
私は、はじめから天之大神が、坂戸神・沼尾神を飲み込み、祟りが起きないように摂社を設けたと、やや意見を異にするが、
天之大神が、鹿島神宮の主であり、武甕槌神であるという点で大きく志田説に違和感はもたない。
・国家神である武絶槌神が
・何時の時点で中臣氏並びに藤原氏の氏神となっていったか
・明確では ない。
・武甕槌神即ち鹿島神宮を藤原氏の氏神とする初見史料
・『続日本紀』宝亀8年(777年)7月16日条に
・内大臣従二位藤原朝臣良継病、その氏神鹿嶋社を正三位、香取神正四位上に叙す。
とあるのだという。
藤原良継とは、天平12年(740年)の藤原広嗣の乱で有名な広継の兄。
広継の乱に連座して伊豆国へと流罪となった。
後に赦されたのだが、病気になってしまう。
そのとき、良継の病気平癒を祈願したのが、鹿島神宮(氏神・鹿島神宮に正三位の位を与えた)だった。
つまり、777年の時点で、鹿島神宮は藤原氏の氏神の地位を確立していたことになる。