inaojiの日記

社会科教師OBの社会科系徒然語り

鹿島の神と香取の神:武甕槌と経津主神

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令和6年4月23日(火)、鹿島神宮神宮と香取神宮を巡ってきた。

常陸国に鎮座する大和朝廷系の神宮社。

どちらも、一千年を超える御神木の醸す神域に囲まれた神座所。

訪れるだけで、厳かな気持ちになった。

 

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東を向く香取社

 経津主神(フツヌシ)は、古事記には登場しない神。
古事記では、武甕槌(タケミカヅチ)と同一視されていたためだと思われる。

 

日本書紀にのみ登場する神。
布都主神と表記されている剣が神格化した神。

 

香取神宮の拝殿・本殿は東を向いていた。

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香取神宮
住所|千葉県香取市香取1697
Tel|0478-57-3211

西❓を向く鹿島社

鹿島神宮は北を向いている、とされる。

だが私には鹿島社の鳥居は東を向いているのに、拝殿・本殿が西を向いているように感じた。
何故だろうか。

 

北を向くのは、北の押さえの神社だからと言われる。

だけど、北ではなく西なのでは…❓

 

もしかして、東海道北陸道の押さえ?

現地に行ったから感じる違和感…。

ところで、

鹿島社の祭神は、武甕槌神とされている。

 

武甕槌は、古事記にも登場する国譲り神話の中心となった神。
古事記では、武甕槌が持っていた剣がフツノミタマノツルギ(韴霊剣)。
さらにこの剣は神武東遷の時に、イワレヒコ(後の神武天皇)に勝利をもたらした神剣。

 

韴霊剣は、現在石上神社に保管されていることになっている。

石上神社は、物部氏系の神社。


現在鹿島に保管される下の剣は、『直刀』と呼ばれ、韴霊剣の二代目とされている。
鹿島神宮は、中臣氏と関わりの深い神社。

中臣氏は物部氏全盛期には物部氏の家臣だった。

 

物部氏が滅んだ丁未の乱(ていびのら・587年)後、常陸に残った中臣氏は、韴霊剣を自分たちで祀りたいと願ったのだろうか。

だが、石上神社に祀られた神剣を鹿島に移すことはかなわず、韴霊剣に似せた剣を創って祀った、というストーリーはどうだろう。

 

科学的な調査によると、鹿島神宮の直刀の制作は1300年ほど前。
現存する日本最古の剣とされる。

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鹿島神宮の細石

鹿島神宮には、国家に謳われる細石(サザレイシ)がある。

細石として有名なのは、高乃宮神社 境内 (広島市安佐南区長束西1丁目)にある細石だろうが、鹿島神宮内の細石も厳かで、趣深い。

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要石

要石は、鹿島神宮にも香取神宮にもある。
地震は怖い。

関東は、随所にある要石によって地震から守られているのだろう。

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鹿島神宮の元神、沼尾の神と坂戸の神は、現在摂社として別所に祀られる

鹿島社は、元々は、坂戸の神と沼尾の神と天之大神(アマノオオカミ)の三柱の神の習合神
だが、いつの頃からか、鹿島の神は、武甕槌申が祭神とされ、その他の神は拙者として祀られるようになった。

 

天之大神が、武甕槌であり、この神が他の神を飲み込んだと考えると他の神が拙者として祀られるのはわかる。
だとしたら、他の諸々の神と同じように鹿島神社の境内に拙者として坂戸の神も、沼尾の神も祀られるいるのかと思いきや、

 

意外にも、この二柱の神は、鹿島社の境内には無かった。
鹿島社から、2キロ・4キロ離れた場所に祀られていた。

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土地神として、神格が強かったため、同じ境内に祀らずそれぞれの元々の場所に祀ったのだろうか。

元々の住民からの信仰が厚かったのだろうと想像する。

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鹿島神宮の祭神は武甕槌神と、明記されていなかった

鹿島の神は、タケミカヅチ

自明のことと思われるが、何と古事記にも・日本書紀にも、常陸風土記にも鹿島の神が「タケミカヅチ」だとは記されていない。

 

いつ頃鹿島の神が「タケミカヅチ」と書物に書かれるようになったのか。
その書物は、何と言うのだろうか。

狛犬

常陸の国風土記の那賀の香島大神 p41

  ・風土記和銅6年713年の中央官命に基づく
  ・純漢文体
  ・藤原の宇合(不比等の子・鎌足の孫)と
  ・高橋虫麿が完了

風土記は、和銅6年の中央からの命令で各国でつくられた。
常陸の国も、この命令によって常陸風土記をつくった。

 

常陸風土記の完成に、深く関わったのが、藤原鎌足の孫で不比等の子で藤原式家の祖となった宇合
そして、高橋虫麿が編纂に深く関わったとされる。

宇合が編成したと思われる部分 p42

・大乙上中臣□子・大乙下中臣部兎子等
・~神の郡を置き
・天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社、
・三處を合わせて、香島の天の大神
・因りて郡に名付く

香取神宮の祭神である経津主神について

・『常陸国風土記』信太郡に普都大神として記述

宇合並びに、その命を受けたであろう虫麿がかかわったとされる記述に、鹿島の神の名は無い。

ただ、「香島の天之大神」と書かれているだけだ。

 

対して、香取神宮の祭神は、「経津主神(フツヌシ)」だと書かれている。

これは、どういうことだろうか。

 

・普都大神が天

・即ち高天原から降りて

葦原中国を平定して後

・甲・戈・楣・剣、及執らせる玉珪を

・ この地に留めて

・白雲に乗って還って行ったことが記

・ その数行(省略分もあるが、)後に

・香島大神を遙拝して

東海道常陸路に入る記事あり

経津主神は、香取神社に武具や宝を置いて、自身は白雲に乗って高天原に帰った、と書かれている。

 

そして、もう一つの事実が書かれている。

 

東海道地方から、関東(常陸)の国に入る人は、、香島大神(天之大神)を拝んでから、関東に入った。』

 

というのだ。
このことから、宇合や、虫麿は、香島の神を特定はしていないが、『香取の神より、香島の神の方が上』と解していた。

 

経津主神武甕槌神は、古事記日本書紀からみて、セットの神。

そうなると、経津主神より、神格が上なのは武甕槌(タケミカヅチ)神となる。

 

もしかすると、宇合や、虫麿はあえて明記しなくとも、「香島の天之大神は、武甕槌だ」と、捕らえていたのかもしれない。

だが、常陸国風土記に、「香島(鹿島)の神の名が明記されていなかった」という事実は、引っかかる。

 

では、武甕槌神の名が明記されたのは、どの書物からか。

 

 古語拾遺先代旧事本紀の中の武甕槌神 p44

古語拾遺

経津主神

  〔是は磐筒女神の子
  今下総國の香取神なり。〕と

武甕槌神〔是は甕速日神の子。
  今常陸國の鹿嶋神なり

古語拾遺は、

大同2年(807年)、大同元年(806年)とする説もあるが、

おそらく、平城天皇即位の「延暦25年・大同元年(806年)」以降の作。

つまり、常陸国風土記より、70年~80年後に編纂されただろう。

ここで、初めて、「武甕槌神が、鹿島の神だ」という明確な記述が現れる。

  
 また、『先代旧事本紀』にも、鹿島の神は、武甕槌神だという記述がある。

 

先代旧事本紀

先代旧事本紀は、

大同年間(806年 - 810年)以降~(904年 - 906年)の間に編纂されたと推定されている。

また一説には、807年 -~868年の間とする説がある。

つまり、「先代旧事本紀」は、「古語拾遺」と同時期、場合によってはさらに100年後の書物、と言うことになる。

 

この本にも、

武甕槌神鹿島神宮の祭神として明記』

ただし、筆者は、この本について次のように述べる。

・『先代旧事本紀』は平安時代の作といわれる

信憑性の低い文献であると評価

・全体的に物部氏関係の記事が多い

物部氏一族の者が編纂したという説が一般的

と、筆者は、「先代旧事本紀」の内容については、否定的な感覚を持っているようだ。


香島大神と武甕槌神   p45

 ・日本書紀』『古事記記』『常陸国風土記』『古語拾遺』『先代旧事本紀
  ・文献で、
   香島大神そして

鹿島神宮の祭神については記紀並びに『風土記』では

・祭神名無し

鹿島神宮の祭神としての武甕槌神

古語拾遺』(大同二年・807年に成立)以降

驚きの事実!
当初、鹿島の神は、武甕槌神と明記されていなかった。

何時ごろから祭神が武甕槌神経津主神になったか。  p45

・何時の時点で

・国家神である武甕槌神経津主神

・中臣氏並びに藤原氏氏神となっていったか。

・未解決事項が多い。

筆者は、何時の時点で、鹿島の神が武甕槌となったのか、
また、武甕槌神経津主神が中臣氏並びに、藤原氏氏神となっていったのかについては、未解決の部分が多く、「わからない」と述べている。

 

ここで、忘れて成らないのは、本来中臣氏は、物部の家来だったことだ。
丁未の乱で物部本家と、中臣本流が滅んだことで、常陸流の中臣氏が力をもち、中央の中臣に取って代わったのだろう。

 

ということで、本来なら物部の子分だった中臣は地位を逆転して、

中臣>物部、と成ったのだろう。

だから、香取より、鹿島の方が上、

常陸に入るときは、鹿島の神を拝んでからで無いと、入れない」
ということになったのだと思う。

 

  祭神について、いくつかの論点を紹介

・鹿島の祭神について

・『風土記』の

・「其處に有ませる天の大神の社•坂戸の社•沼尾の社、三處を合せて、惣べて香島の天の大神と稱ふ」がキーワード

・  この鹿島三社で香島の天之大神が神格を形成

筆者は、

鹿島の神は、在来の神であった、「坂戸神」と「沼尾神」と大和の神「天之大神」が習合したと言うが、「天之大神」が「坂戸神」と「沼尾神」を飲み込んだと考えているようだ。

 

さらに筆者は、志田諄一氏の説を紹介する。

志田諄一氏の説 

・鹿島の神は土着の地方神ではなく、

・東国経略の拠点として、

・水運の根拠地・
   物資の集積地である鹿島の地に

大和朝廷によって創建された可能性・強い

・『常陸国風土記』信太郡の普都大神の登場する条を引用し、 

・普都大神は、『日本書紀』に経津主神とあり、

・神代下には武甕槌神葦原中国の平定に遣わされた神

志田氏は、鹿島の神は三柱の神が習合したのではなく、大和朝廷によって新しく創建された、つまり天之大神が、他の二柱を飲み込んだ、と言っているのだと思われる。

 

そして、香取の神がフツヌシなら、鹿島の神は、ケミカヅチでしょう、という理屈のようだ。 
  

・『古事記』は神武天皇が賊徒平定に際し、

・建御雷神から与えられた剣の名を

・「布都御魂」と

・『常陸国風土記』に葦原中国平定のため

「天之大神」と普都大神が天降る

・『古事記』の叙述と関係あり、

・「普都大神」は本来劍そのもの

・『常陸国風土記』に普都大神があらわれてる以上、

・「香島の天之大神」といえば

タケミカヅチノ神を指すこと

・当時の常識

 

・天の大神と、坂戸の神と、沼尾の神を合わせたが、

・香島の大神の主体、天之大神はタケミカヅチ(軍神)

タケミカヅチとフツヌシはセットの神。
本来、フツヌシは、フツノミタマという剣。
タケミカヅチの持ち物)

だから、鹿島の神は、書かれていなくても、武甕槌神であることは自明
という主張のようだ。

  
   『古事記』『日本書紀』にも国内平定に活曜

 ・東国経営に加護を願うため、

・鹿島の地に鎖座

・『常陸国風土記』信太郡の条に

・榎浦津に置かれた駅家

東海道に属す

常陸国への入り口

・伝駅使たちが、初めてこの国に入るとき

・口をすすぎ、手を洗い

・東を向いて香島の大神を拝し、

・それから後に入る

当時の社会では、筑波のちょっと手前の信太郡までは、東海道だった。
そこから、常陸の国に入る場合、
駅家で、『口をすすぎ、手を洗い』身を清めてから、東を向いて鹿島の神を拝んで許しを得てからでないと、常陸の国に入ることが出来なかった、という。

 

鹿島の神は、国家神

このことから、確かに「 風土記に、鹿島の神の祭神名は、書かれていない」が、
 当時、すでに「香島之大神は、国家神」であったことは間違いない。

 

となれば、祭神は明らかに「武甕槌神であることは自明」だ、という論理になる。

志田説 まとめ

香島神宮の祭神は、

・4世紀~5世紀に始まった  大和朝廷の東国進出により

・物部系多氏が

東海道方面から進出した際

・守護神として武甕槌神経津主神を奉祭

・水運の根拠地・物資の集積地である 鹿島の地に

・大和朝代によって

・天之大神社として創建

・地元神である坂戸社•沼尾社と三社で

・「香島の天之大神」・一つの神格構成

・ その後、

・ 東国経略、蝦夷征討の進展

・天之大神社が単独で

・香島の天之大神を祀ることになる

・坂戸社•沼尾社は摂社となる

私は、はじめから天之大神が、坂戸神・沼尾神を飲み込み、祟りが起きないように摂社を設けたと、やや意見を異にするが、

天之大神が、鹿島神宮の主であり、武甕槌神であるという点で大きく志田説に違和感はもたない。

 

・国家神である武絶槌神が

・何時の時点で中臣氏並びに藤原氏氏神となっていったか

・明確では ない。

 

武甕槌神即ち鹿島神宮藤原氏氏神とする初見史料

・『続日本紀宝亀8年(777年)7月16日条に

内大臣従二位藤原朝臣良継病、その氏神鹿嶋社を正三位、香取神正四位上に叙す。

とあるのだという。

  藤原良継とは、天平12年(740年)の藤原広嗣の乱で有名な広継の兄。
広継の乱に連座して伊豆国へと流罪となった。

後に赦されたのだが、病気になってしまう。

そのとき、良継の病気平癒を祈願したのが、鹿島神宮氏神鹿島神宮正三位の位を与えた)だった。

 

つまり、777年の時点で、鹿島神宮藤原氏氏神の地位を確立していたことになる。

 


   

中臣鎌足はどこで生まれたか:常陸鹿島説と大和高市説

鹿島社と中臣鎌足 P17

神武天皇

  鹿烏社と藤原氏の関係は深く、
  始祖である中臣鎌足の出生地について
  大和国高市郡大原説と
  常陸国鹿島説がある。
  いずれも特定するに至っていない。

  丁未の乱(ていびのらん)で物部本家と、中臣系多氏の本家は衰退してしまう。
これを考えたら、中臣の本流は、有るときから常陸流の中臣系多一族が中心となったと私は思う。

だが、藤原鎌足の生まれは「大和国高市郡大原説」が主流だという。
ちょっと納得できないが、現時点では資料が足りないか…。

 

大和国高市郡大原説

  『大職冠伝』に鎌足高市郡の人
  御食子の長子
  母は大伴夫人
  豊御炊天皇推古天皇)22年(614年)に
  藤原第で生まれたと

 

常陸国鹿島説

大鏡』の巻五
  藤氏物語を根拠

  『大鏡』は物語性が強い
  鎌足不比等の功績などに
  記載間違いが多い
  信憑性が低いとの評価が定着している
  常陸国鹿島説は
  中臣氏の東国進出後、
  鹿島社との関係が成立したのちに流布した
  二次的な説との見解あり。

大鏡が、根拠となる資料だというのでは、定説となるのは難しいだろう。

だが、『中臣氏が東国へ進出した後に、鹿島社との関係が成立し、その後に鎌足が鹿嶋出身だという説が生まれた』
という考え方には、賛成できない。

・『中臣氏が東国へ進出した後』というのは、いつ頃を言っているのか?

ナカトミノオオカシマノミコト(建借間命)が、ナカへ進出し、鹿島・行方を制覇したのは、遅くてもおそらく4世紀~5世紀のはず。

鎌足生誕の200年、300年は前の話だ。

この『中臣氏が東国へ進出した後』とは、孝徳天皇の時代のことを言っているようだ。
「坂戸社」と「沼尾社」を併合して(土着民族を平らげて)、「天之大神」が在地の神を飲み込んで鹿島社ができた。

つまり、大和朝廷(中臣系氏族)が、在地勢力を掌握した。
だから乙巳の変以後の大化の改新のころ。
だから、それ以前に生まれた鎌足は、大和で生まれたということ。

整合性はあるが、心情的には、丁未の乱後に中臣系氏族の本流が常陸流中臣氏族にうつり、鹿島周辺を中臣系多一族がすでに掌握していたと考えたい。

これ以上は、文書資料その他の明確な資料が出なければ、無理だ。
しばらくは、大和説主流が続くだろう。

 

  鎌足を祀る談山神社(たんざんじんじゃ)の
    『多武峯(とうのみね)縁起』では
  大和国高市郡大原説を主としながら
  常陸国鹿島説を併記
  
  推古天皇二十二年
  甲戌八月十五日
  大和國高市郡大原藤原第に於て生れる。
  或説に云う、
  常陸國鹿嶋郡に於て生まれる。
  すなわち鹿嶋神これ籐氏の氏神なり

   

大和国高市郡大原説は 、
  藤原第を誕生地としている
  
  鹿嶋説
  鎌足神杜周辺の小字名に
  「藤原」という地も
  
   常磐流中臣
   鹿島・香取 を中心とする
  常陸国出自の中臣氏が
  本宗中臣氏の没落後、
  本宗の座を継ぎ、
  鎌足常磐流中臣氏出であると

 

加藤謙吉氏の論文

王権の手により神祇支配の強化と
  祭祀機構の整備
  本来独立して神事・祭祀や呪術的技能に携わっていた
  諸集団の中から、
  個々の専門職・技能により切り離され、
  「中臣」という統轄的伴造職
  就任する集団が現れたと想定
  「中臣」職に就いた者たち
  職名にもとづき「中臣」をウジに負う

  中臣氏には
  カバネや出自を異にするいくつかの系統の一族が存在
  主体をなしたのが
  連姓を付された鎌子・勝海系の中臣氏
  この一族と
  始担である児屋根命を共有し、
  その同族に列したのが
  東国鹿嶋・香取の卜占集団
  丁未の役を契機に、
  常磐流の一族は
  傍流から中臣氏の本流の座に昇り
  中央の神職の座を独占
  管轄下の専門・技能集団、
  在地の神・祭祀団への統制を強め、
  彼らと擬制的な同族関係を形成していった

この説を支持する。

確かに、建借間命の時代に中臣系多一族が常陸の国にある程度の勢力基盤をつくったのは、4世紀~5世紀にかけてだろうか、中央での力は弱かったはずだ。


常陸流中臣多氏族が、中央でも一定の勢力をもつようになったのは、

丁未の乱後、
丁未の乱は、

587年7月
蘇我馬子
物部守屋追討

馬子は厩戸皇子泊瀬部皇子竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率い
河内国渋川郡の守屋の館へ進軍

 

つまり、常陸流中臣氏が中央で力を持つようになるのは、おそらく590年~600年ごろにずれるはず。

 

こう考えると、鎌足が生まれたとされる614年は、中央で主流なのは常陸流中臣氏となっていたはずだ。

常陸流中臣が、力をもってから10年程度時が過ぎていただろうか。

鎌足が生まれたのは、大和だったかもしれないが、どう考えても、ルーツは常陸にある。

   

 滕氏家伝 

鎌足大和国高山郡藤原第で生まれたとする
  『大鏡』の説はまったく信用に価せず、と主張
  中臣氏の東国進出により鹿嶋社などとの関係が成立した後、
  二次的にこのような説が流布されたとする
  
  しかし 常陸流中臣氏の故地が常陸であった事実
  『大鏡』が鎌足常陸誕生説を説いたとすれば、
  決して的はずれな解釈とは言えず、
  むしろ史実の一端を伝えていると見ることが可能   P21

確かに、「籐氏家伝」では、大和説を主張する。
そうなのかもしれない。

だが、史実から推し量ると、当時の中央の中臣は、常陸流中臣のはずだ。
ルーツは、常陸にある。

常陸国一之宮 鹿島神宮の研究』のP21まで

 

 

鹿島退社の本殿・拝殿はいつできたのか

香島郡の建郡と社殿の建築について p11

  香島郡の条

  •   古い翁が言うことには、
  •   難波の長柄の豊前のおおみやに(大朝)
  •   あめのしたしろしめししスメラミコトの世
  •   ツチの酉の年
  •   大乙上中臣の○○子、
  •   大乙下中臣部の兎子ら、
  •   惣領高向のオオマエツギミにこいて
  •   下総の国
  •   海上の国造の部内
  •   軽野より以南の一里
  •   那珂の国造の部内
  •   寒田より以北五里とを割きて、
  •   別に神のコオリを置きき
  •   そこにいませる所の天の大神の社
  •   坂戸の社・沼尾の社、三所を合わせて
  •   すべて香島の天の大神という
  •   よりて郡に名づく
  •   風俗のコトバに
  •   現れふる香島の国という

 「香島郡の条」に、鹿島社は、三柱の神が習合して成ったことが書かれている。

「坂戸社」「沼尾社」大和朝廷の「天之大神」だ。

この三柱が習合して、「鹿島社」となった。

 

「坂戸社」の神と、「沼尾社」の神は、在地の神。
そこに、代々住んでいた人々が祀っていた神だった。

そこに、ヤマトの征服民の神がやって来て、在地の神を取り込んで「鹿島の天之大神」となった。

ただし、この段階では自然信仰であり、鹿島の地に大社としての建物があったわけではない。

では、建物はいつごろ建ったのか?

  
社殿の造営について p11

  •   淡海の大津のミヨに
  •   初めて使いを遣わして
  •   神の宮をつくらしめき
  •   それよりこのかた
  •   つくること絶えず

        孝徳天皇の治世

  •   大化5年  649年
  •   鹿島神郡がつくり置かれたことが書かれている。
  •   鹿島神郡の由来
      天の大神社と坂戸社・沼尾社の三社を合わせて
  •   香島之大神と称した

      

      天智天皇の時代

  •   天智天皇は、662年~671年

  •      朝廷が使いを派遣して、

  •   上の宮を造営

  •   鹿島社も、他の名神大社と同じように

  •   天智天皇の時代に社殿を造営したことを示した記事

  天智天皇以前は、鹿島社も他の名神大社も社殿をもたない神社だったということ

 

ここまでの記述をまとめる。

「坂戸社」「沼尾社」そして、「天之大神」が習合して鹿島社となったのは、大化の改新が勧められていた孝徳天皇の時代

 

西暦でいうと、649年ごろ。
ただし、その頃は、自然崇拝であり、本殿とか拝殿とかは無かった。

 

本殿・拝殿などの建物が造営されたのは、天智天皇のころ。
天智天皇の治世は、668年から672年

 

中臣鎌足藤原鎌足)と、中大兄皇子天智天皇)が活躍した頃に、鹿島社の本殿・拝殿などが建てられた。

  国家仏教化する仏教に対抗する意図

沼尾池について p13

  •    社の南にコオリのミヤケあり。
  •   北に沼尾の池あり。
  •   古老が言うことには
  •   神代に天より流れきし水沼なり
  •   生うる所の蓮根は、
  •   味わいいと異にして
  •   うまきこと他所に優れたり
  •   やめる者
  •   その沼の蓮を食らえば、
  •   早くイエてシルシあり
  •   鮒・鯉・多に住めり
  •   前に郡の置かれし所なり
  •   多く橘をうえるところの実ウマし

 

  •   沼の神格化が沼尾社の第一段階
  •   第二段階は、神の宿る場所として神籬をつくった
  •   第三段階として、神籬のある場所に、祠をつくった

筆者は、鹿島社成立までの流れを、第一から第三の段階的にとらえている。

 

第一段階は、沼そのものを神格化して拝んでいた段階。
第二段階は、沼のほとりに拝む場所を設けた段階。
第三段階は、祠をつくって、神社として祀るようになった段階。

 

筆者は、第三段階で止めたが、三柱の神を祀るために、本殿や拝殿という明確な神社をつくった段階が抜けているのではないだろうか。
天智天皇の命によって、神社が建立された段階が第四段階だろう。

鹿島社の創建についてp13

  •   鹿島社は、
  •   坂戸社・沼尾社・天之大神社の三社をもって
  •   鹿島之大神という神格を形成
  •   地元の氏族の神と、大和朝廷の多氏が祀る神で形成
  •   征服者と被征服者の融和のシンボル

神社が本殿や拝殿をもち、大社としての姿を現すのは、大和朝廷の地方統治政策の一環でもあった。
鹿島大社も、その他の大社と同じで、大和朝廷の思わくによって本殿や拝殿をもった。

 

神の宿る社は、裏を返すと軍事拠点。

大和朝廷の勢力拡大の拠り所だったようだ。

行方について

  •   多氏のタケカシマノミコト  建借間命
  •   征服神話 p14
  •   考古学上、大和朝廷の東征と合致する
  • 建借間命は、  4世紀~5世紀
  •   物部氏・多氏の東征と
  •   東国経営
  •   その拠点として、鹿島社
  •   天之大神

鹿島郡の隣の行方の条には、建借間命の活躍が描かれている。

中臣多借間命。
タケカシマは、中臣系多氏だ。

この人物は、那賀国造の祖でもある。

 

そして、中臣系多氏は、物部氏の配下であった。
だが、物部氏蘇我氏との戦いに敗れて力を失う。

 

中央の中臣系多氏族は、物部とともに滅びてしまったらしい。
そうなると、常陸に残った中臣系多氏が、本流に取って代わり力をもった。

 

常陸流中臣氏の誕生だ。

鹿島社と多氏 p14

  •   多氏は大・大・飫富など多数で表記される。
  •   祖は、神八井耳命
  •     多一族は、九州から・近畿・中国・関東・東北に渡り広く分布
  •    各地方に強力な勢力基盤を築いた
  •   ヒタミチの那賀(仲)国造の祖
  •    建借間命も、常陸国風土記でも、仲国造の祖とある

 

  • ヤマト朝廷の東国進出は、
  •   物部と多氏を先頭に、
  •   4世紀~5世紀にかけて

日本書紀の記述p14

  •   崇神天皇四道将軍の派遣と
  •   景行天皇の明を受けて蝦夷征伐に向かった日本武尊
  •   上総から海路で、葦浦・玉浦を経て、
  •   蝦夷地の境界・タカノ水門に至ったとする記事在り
  • タケカシマ・ 建借間命
  •   筑波…イバラキの地を分割して信太郡の高来の里
  •   物部氏の守護神・
  •   普都大神
  •   天から降った
  •   物部と多氏の東国進出を示している

P15

  •   古老のイエラク
  •   シキの瑞垣の宮に
  •   大八洲知らしめしし  天皇の世
  •   東のサカイの荒ぶる賊をコトムケとシテ
  •    建借間命スナワチ
  •   コハ那賀の国造が初祖なり
  •   を遣わしき
  •   イクサビトをヒキイテ
  •   行くゆく
  •   ニシモノをコトムケ
  •   安婆の島にヤドリテ
  •   海の東之浦をノゾミたまひき
  •   時にケブリ見えしかば
  •   コモゴモ
  •   人やあると疑いき
  •    建借間命
  •   天を仰ぎて
  •   誓いてイイシク
  •   時に  ケブリ
  •   海をサシテ流れき
  •   ココニ  自ら凶賊有ることを知りて
  •   即ちトモガラニオホセテ
  •   褥食して渡りき
  •   是に、
  •   国栖(くず)、 名は夜尺斯(やさかし)  夜筑斯(やつくし)と日へるもの
  • 二人有り。
  •   自ら首帥(ひとこのかみ)と為りて、
  •   穴を堀り堡(とりで)を造りて、
  •   常に住めり。
  •   官軍(みいくさ)を覗伺(うかが)ひて、
  •   伏し衛り拒抗(ふせ)ぐ。
  •   建借間命、兵を縦(はな)ちて
  •   追やらしかば、
  •   賊 尽(ことごと)に逋(に)げ還(かえ)り、
  •   堡(とりで)をとじて固く禁(まも)りき。
  •   俄にして、建借間命、
  •   大きに権議(はかりごと)を起こし、
  •   敢死之士(たけきいくさびと)を校閲(すぐ)り、
  •   山の阿(くま)に伏せ隠し、
  •   賊を滅さむ器(つわもの)を造り備へて、
  •   厳(いか)しく海渚(なぎさ)に飭り、
  •   船を連ね、筏を編み、
  •   雲のごとく、
  •   きぬがさをひるがえし
  •   虹のごとく旌を張り、
  •   天の鳥琴
  •   天の鳥笛、
  •   波の随(まにまに)に潮を逐(お)ひて、
  •   杵島唱曲(きしまぶり)を七日七夜、
  •   遊び楽ぎ歌ひ舞ひき。
  •   時に、賊の党、盛なる音楽を聞きて、
  •   房挙(いへこぞ)りて
  •   男女、悉尽(ことごと)に出で来て、
  •   浜傾かして歓咲(ゑら)ぎり。
  •   建借間命、 騎士(うまのりのひとをして
  •   堡(とりで)を閉じしめ、
  •   後(しりへ)より襲い撃ちて、
  •   尽(ことごと)に種属(やから)を囚(とら)へ、
  •    一時に焚き滅しき。
  •   此の時、痛く殺すと言ひし所は、
  •   今、伊多久(いたく)の郷と謂ひ、
  •   臨(ふつ)に斬ると言ひし所は、
  •   今、布都奈の村と謂ひ、
  •    安く殺(き)ると言ひし所は、
  •   今、安伐(やすきり)の里と謂ひ、
  •   吉く殺(さ)くと言ひし所は、
  •   今、吉前(えさき)の邑と謂ふ。
  •   板来の南の海に洲有り。
  •   三四里許(ばかり)なり。
  •   春の時は、香島 行方二つの郡の男女、
  •   尽に来て、津白貝・雑味の貝物を拾ふ。


殺戮の歴史が描かれている。
だが、遺跡などから見つかるものを見ると、ここに書かれた歴史とは、また違う姿も見える。

 

縄文土器と、弥生土器が混在しているのだ。
これは、何を物語るのか。

 

おそらく、現地民と、大和朝廷の人々が、混在して暮らしていたのだろう。

 

 

鹿島神宮の研究:『常陸一之宮鹿島神宮の研究』を読む

常陸一之宮鹿島神宮の研究』を読む

鹿島神宮

 

古代鹿島社の成立

鹿島神宮の縁起をみると、神武天皇の元年に創建とある。
となると紀元前660年に、鹿島神宮は創建されたことになる。

だが、そんなはずはない。

実際の創建は何時なのだろうか。

別の箇所に、「崇神天皇の御代」とある。

崇神天皇は、実在の天皇とされるが、その御代が何時なのかは分からない。

前97年から紀元30年ごろ、とする説がある。

こんなに長い間生きるはずがないので、信じられないが、紀元前後と考えておきたい。

だとすると、崇神天皇の頃に出来たとも考えがたい。

だが、鹿島神宮は、坂戸社と沼尾社とヤマト王権の神が習合して出来た神社だということが正しければ、崇神天皇記に、鹿島社の前身として、地元の守である坂戸の神と沼尾の神が、まず鹿島の地に祀られていたのかもしれない。

問題は、ヤマト王権の神が、いつやってきたのかだ。

考古学から見た大和朝廷の鹿島進出 p4

タケカシマは、中臣の多借間命と同一人物だろうか

考古学的に見ても、縄文時代の先住民がこの地に住んでいた。

先住民は、常陸風土記でいう海の佐伯とか山の佐伯、また土蜘蛛などと呼ばれた人々で、おそらくアイヌ系の縄文人だったのだろう。

そこにヤマト王権の人々がやって来た。

だが、常陸風土記に書かれるような殺戮の歴史ではなかったのかもしれない。
縄文人と、ヤマト王権人が共存していた後が、遺跡から見つかっている。

 

先住民と大和朝廷の融合       p8

  •   装飾壁画古墳
        装飾癖が古墳と物部氏・多氏との関係
        吉田古墳・那賀国造
        多氏と東征
        鹿島社創建と壁画古墳との関係
        実証はない
      九州多氏との関係

  大坂山の頂に、
  白(しろ)細(たえ)の大御(おおみ)服坐(ぞさま)して、白鉾の御杖 取り坐(ま)し、
  識(さと)し賜ふ命(みこと)は「我が前を治め奉らば、汝が聞こし看(め)さむ食国(おすくに)を、大国小国、事依さし給(たま)はむ」 と識(さと)し 賜ひき(たまいき)。 
  時に、八十伴緒(やそとものお)を追集(めしつど)へ、此の事を挙げて訪問ひたまひき。 
  是に、大中臣の神•聞勝命(ききかつのみこと)、答えて日さく、「大八島の国は、
  汝が知食さむ国(しろしめさむくに)と、事向け賜ひしは、香島の国に坐す、
  天津大御神の挙教し(さとし)ましし事なり」とまをしき。
  天皇、諸を(これを)聞しめして、即ち恐み驚きたまひて、前の件の幣帛を
  神の宮に納め捌りき、といへり

とある。

長い年月をかけて、縄文人は北へ移動する人々と、ヤマト王権の人々と同化する人々にわかれたのではないだろうか。

鹿島は、北の勢力に備える前線基地となったのではないだろうか。

 

 

常陸国(茨城県)の「式内社は27社」、「祭られる神は28座」

常陸の国には、延喜式神名帳に記載されている神社、いわゆる式内社延喜式内社のことが全部で28座ある。

延喜式内社とは、延喜式という平安中期の法典に登載されている神社のこと。
全国(宮中、京中、五畿七道 )に約3千座(3132座)がある。

そのうち、東海道に属する常陸国には28座がある。

「座」とは 神座のこと。
筑波山神社のように一社に二座 筑波男神 と筑波女神 の二柱の神を祀る場合もある。
だから、神は28座だが、神が祀られる社は、27社ということになる。

常陸の国の式内社28座とは

延喜式』卷 九 いわゆる 神「 名帳」 に登載されている常陸国28座の明細は次の通り である。

○鹿嶋郡二座
・鹿嶋神宮・大洗磯前薬師菩薩神社

真壁郡一座
・大国玉神社

○信太郡二座
・楯縫神社・阿弥神社

久慈郡七座
・長幡部神社・薩都神社・天之志良波神社・天速玉姫命社・静神社・稲村神社・立野神社

筑波郡二座
筑波山神社(二座)

○那賀郡七座
・大井神社・青山神社・吉田神社・阿波山上神社・酒列磯前薬師菩薩神社・藤内神社・石船神社

○新治郡三 座
・稲田神社・佐志能神社・鴨大神御子神主玉神社

○茨城郡三座
・夷針神社・羽梨山神社、・主石神社

○多珂郡一座
・佐波波地祇神社 

延喜式神名帳には、「神社の祭神」についての記載が無い

延喜式神名帳には、式内社の記述はあるが、その神社がどこにあるのかは郡名のみしか記されていない。
だから、実際は古代からその神社がそこに祭られていたのかどうかさえ、よく分からない。
もしかしたら、延喜式神名帳に書かれていた神社と今の神社は別の神社という可能性すらある。

また、祭神についても延喜式神名帳には明確な記述が無い。
つまり延喜式神名帳に書かれた神社に、どのような神様が祭られていたのか分からないし、場合によって時代によって祭られる神が変化し、もともとは現在の神では無かった、ということも大いに考えられる。

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動き出すか!「トリガー条項」凍結解除へ、ここは頑張れ国民民主

動き出すか!「トリガー条項」凍結解除へ、ここは頑張れ国民民主

国民民主党は24日午前の政調全体会議で、2023年度補正予算案にs南西する方針を決めた。燃料価格の高騰対策としてガソリン税を一時的に下げる「トリガー条項」の凍結解除に向け、与党が協議に応じる構えを示したことを評価した。(読売新聞24日)

やっと動き出した「トリガー条項、凍結解除」

自民党萩生田光一政調会長は国民民主党の大塚政調会長と24日に協議、岸田首相が検討を指示した「凍結解除」について話し合う方向で動き出した。

(読売新聞24日・午前5時発)

まったくおそい。
周りが騒ぎ出し、「これはまずい」と首相が気付くまでにどれだけの時間を要するのだろうか。

170円を超えるガソリン税、冬場を迎え灯油や電気代が高すぎて日本経済を圧迫しているのに、自分たちの給料を上げるために時間を費やす無能ぶり。(給料増額分は、国庫返納と決まった。)

当面、ガソリン税を安くするのはもちろんだが、日本お回りに眠る天然資源の開発にも本格的に力を注いでもらいたい。

国民民主党玉木代表の動き

国民民主党の玉木代表は、凍結解除を条件に、2023年度補正予算案に賛成する考えを示した。(読売新聞24日・午前5時発)

国民民主党が、自民党に歩み寄りを見せているのに、

自民党内では、『凍結解除の即断は難しいとの見方が多く』(読売新聞24日・午前5時発)

とあり、安倍晋三無き自民党が迷走していることをここでも露呈してしまっている。

この事態に、自分たちの利権第一では無いだろう。
国民目線で物事を考える政治家であって欲しい。

国民民主の主張

政府は、ガソリン価格を抑えるための補助金制度を来年の4月まで延長することを決めている。
だが、国民民主の玉木氏は、「来年5月以降の対応策として、トリガー条項の凍結解除」をもとめている。

当然では無いだろうか。
物事は是々非々で見るべき。
この問題に対する玉木氏の言い分は正しい。

やっと動き出した岸田首相

岸田首相は、22日の衆院予算委員会で、「来年の春以降、トリガー条項の凍結解除も含め、ぜひ与党と国民民主党で検討したい」(読売新聞24日・午前5時発)

と表明した。

協議のための協議にならないことを臨む

昨年も同じように、当初予算案に賛成し3党協議に臨んだが、結局実現にこぎ着けることは出来なかった。
この苦い前例がある。

今回も、昨年と同じような結果にならないことを望む。
国民に「協議してますよ」と見せるだけの協議、協議しているポーズだけ示すのでは、もう済まされない。

「流通現場が混乱する」だの、「税制関連法の改正が必要」だの、「国庫の金が減ってしまう」だのという分かったような分からないような慎重論で、ぐだぐだしている時期では無いはずだ。