『常陸一之宮鹿島神宮の研究』を読む
古代鹿島社の成立
- 戦前の神武天皇元年創建という古い社。
- 武運長久のタケミカヅチの大神を祭神として祀られている古い社。
- 延喜式によって神宮号と表記された
- 延喜式は延長 5年 927年に完成。
- 延喜式の施行は康保4年 967年。
鹿島神宮の縁起をみると、神武天皇の元年に創建とある。
となると紀元前660年に、鹿島神宮は創建されたことになる。
だが、そんなはずはない。
実際の創建は何時なのだろうか。
別の箇所に、「崇神天皇の御代」とある。
崇神天皇は、実在の天皇とされるが、その御代が何時なのかは分からない。
前97年から紀元30年ごろ、とする説がある。
こんなに長い間生きるはずがないので、信じられないが、紀元前後と考えておきたい。
だとすると、崇神天皇の頃に出来たとも考えがたい。
だが、鹿島神宮は、坂戸社と沼尾社とヤマト王権の神が習合して出来た神社だということが正しければ、崇神天皇記に、鹿島社の前身として、地元の守である坂戸の神と沼尾の神が、まず鹿島の地に祀られていたのかもしれない。
問題は、ヤマト王権の神が、いつやってきたのかだ。
考古学から見た大和朝廷の鹿島進出 p4
- 鹿島地方は、旧石器時代後期 2万4千年~1万5000年ごろ
常陸伏見遺跡 - 北浦周辺の台地、縄文時代・1万3000年~2300年前ごろ
- 約1万年続いた縄文時代
北関東の足洗い式土器。十王大式土器、弥生式土器 - ヤマト朝廷は、古墳構築・金属器制作
- 東征
- 日本武尊の伝説
- 海上ルート
- 東山道ルート(陸上ルート)
- タケカシマノミコト・物部氏系多氏
- 那珂の国造の祖
タケカシマは、中臣の多借間命と同一人物だろうか
考古学的に見ても、縄文時代の先住民がこの地に住んでいた。
先住民は、常陸風土記でいう海の佐伯とか山の佐伯、また土蜘蛛などと呼ばれた人々で、おそらくアイヌ系の縄文人だったのだろう。
そこにヤマト王権の人々がやって来た。
だが、常陸風土記に書かれるような殺戮の歴史ではなかったのかもしれない。
縄文人と、ヤマト王権人が共存していた後が、遺跡から見つかっている。
先住民と大和朝廷の融合 p8
- 装飾壁画古墳
装飾癖が古墳と物部氏・多氏との関係
吉田古墳・那賀国造
多氏と東征
鹿島社創建と壁画古墳との関係
実証はない
九州多氏との関係
大坂山の頂に、
白(しろ)細(たえ)の大御(おおみ)服坐(ぞさま)して、白鉾の御杖 取り坐(ま)し、
識(さと)し賜ふ命(みこと)は「我が前を治め奉らば、汝が聞こし看(め)さむ食国(おすくに)を、大国小国、事依さし給(たま)はむ」 と識(さと)し 賜ひき(たまいき)。
時に、八十伴緒(やそとものお)を追集(めしつど)へ、此の事を挙げて訪問ひたまひき。
是に、大中臣の神•聞勝命(ききかつのみこと)、答えて日さく、「大八島の国は、
汝が知食さむ国(しろしめさむくに)と、事向け賜ひしは、香島の国に坐す、
天津大御神の挙教し(さとし)ましし事なり」とまをしき。
天皇、諸を(これを)聞しめして、即ち恐み驚きたまひて、前の件の幣帛を
神の宮に納め捌りき、といへり
とある。
長い年月をかけて、縄文人は北へ移動する人々と、ヤマト王権の人々と同化する人々にわかれたのではないだろうか。
鹿島は、北の勢力に備える前線基地となったのではないだろうか。