inaojiの日記

社会科教師OBの社会科系徒然語り

林家二代目:鵞峰の業績「本朝通鑑の完成」

林家二代目:鵞峰の業績「本朝通鑑の完成」

令和5年10月7日・土曜日
久々に「江戸幕府儒学者の続きを読んだ。第八章「林家塾の教育体制」について読んだ。この章は、林家の学塾(昌平黌になるまえの林家の家塾)の教育体制についてまとめられている。だが、研究者でなければ、林家の教育システムについては、一読しておく程度でよいだろう。
付随する、「林家二代目鵞峰の業績としての『本朝通鑑』の完成」と、「鵞峰の長男梅洞(ばいどう)の死」について記すことにする。

親子三代にわたる林家の念願、『本朝通鑑』の完成

林家の祖、林羅山は、『朱子学を普及するため、幕府が学校をつくるべきだ』と考えていた。

実際羅山は、徳川家康に学校創設の建白をしている。
家康も賛同し、学校創設に向け動き出していた。だが、時期が悪く慶長19年(1614年)大坂冬の陣が起こり、学校創設の話はうやむやになってしまう。

大阪の陣が終わり、徳川の天下が確定したので、羅山は幕府官立学校の創設を再び将軍や幕閣に働きかける。

だが、将軍も幕閣も学校創設の熱意は示さなかった。

羅山は仕方なく、家塾によって門人教育をすすめていた。

三代将軍 家光の朱子学に対する姿勢

江戸に居を移していた林家は、寛永7年(1630年)三代将軍家光から上野忍岡(しのぶがおか)に5353坪という膨大な土地を賜った。

羅山は、この土地に林家の塾舎を建てた。そこには、後に湯島に移されることになる孔子廟も建てられていた。

林家二代目 鵞峰 家塾を引き継ぐ

初代羅山は、明暦3年(1657年)に死亡している。後を継いだ林家二代めの鵞峰(がほう)は、四代将軍となった家綱から500両の金を賜り家塾の大規模修繕を行った。そして、林家の忍岡の家塾を弘文院(こうぶんいん)と名付けた。そして自らを弘文院学士と名乗るようになる。

鵞峰『本朝通鑑』の編集作業に入る

父の死で一時泊まっていた『本朝通鑑』の編集が鵞峰によって再開されたのは、寛文4年(1663年)の11月1日からだった。
1663年というのは、武家諸法度が改正(寛文令)され、キリスト教禁教が明文化された年だ。

『本朝通鑑』を編集する場所として幕府により「国史館」が建設された。『本朝通鑑』編集は、幕府の修史事業であったわけだ。

最愛の息子梅洞の死を乗り越えて『本朝通鑑』の完成

『本朝通鑑』の完成は、寛文10年(1670年)
『本朝通鑑』の編集作業、並びに林家の家塾の教育体制の確立は、鵞峰の長男『梅洞(ばいどう)』の活躍に負うところ大であった。

梅洞は優秀であり林家の跡継ぎとして期待されていた。
だが、梅洞は、24歳の若さで突然この世を去る。死因はマラリア性の熱病『瘧(おこり)』だった。

『本朝通鑑』の編集作業が始まって3年目に当たる、寛文6年(1666年)の9月1日に没している。

7月に結婚し、幸せの絶頂にあった梅洞であったが、8月に「瘧」で病臥し、わずか一月後の9月に帰らぬ人になってしまった。

あっけない死であった。

鵞峰は、最愛の息子梅洞の死を受け入れられず、その後1か月以上編集作業に復帰することが出来ず、気力を失っていたという。

だが鵞峰は立ち直り、『本朝通鑑』の編集に邁進するようになる。

 

『皇統が大陸からの帰化』という説をとる『本朝通鑑』の歴史観を、肯定することは出来ない。
だが、林家による歴史書が、このような苦難を乗り越えて編纂された事実には敬意を表したい。