inaojiの日記

社会科教師OBの社会科系徒然語り

江戸幕府と儒学者②:朱子学の心性論と修養論

朱子Wikipedia

 

朱子学の「心性論」とは

朱子学では、「人間の心」をどのようなものと捉えているのだろうか。

人間は肉体とは別にを持っている。肉体は「気」によって成り立っているが、心に
は生まれつきの「性」というものがあり、これは心のなかの「理」とでも言うべきもので、「天理」と繋がっている。この心のなかの「理」である「性」が外界の刺戟を受けた時に、心のなかに「情」が発生する。

江戸幕府儒学者P58)

「心」を「性」と「情」という概念で説明している。

分かりづらいのが、『「性」は心の中の「理」であり、本来「天理」とつながっている。』そして、『「性」は「理」、つまり「性」は「天理」そのもの』

 

だが、『繋がっている』とる。これはどういうことか。『繋がってはいる』が、「天理そのものではない」ということなのか?

そして、「性」は、『外界の刺激(戟)』を受けて「情」が生じるという。

 

この説明だと、「性」は、人であるなら全員同じ「性」を持つことになるのだろうか。

「性」が「性質」を指すとしたら、人間一人一人「性質」は違うのだろうが、『朱子学の「性」は「天理そのもの」で、全員共通?????

 

「情」は、よくわかる。外的刺激によって、個々それぞれに「情」を生ずる。「情」の説明で、やっと現実の人間の心に近づいた感じがする。

朱子学のキーワード「性即理」

朱子学というと、すぐ頭に浮かぶワードの一つとして「性即理」がある。

上記で説明されているように、『人間の「性」は、即そのまま「天理」に通じている』という意味だろう。

この説明だと、人間の心は、「天理」つまり、『道徳的な生き方』をする心がすでに心にある、ということになる。

だが、誰しもが「聖人君主」のような心を持っているわけでは無いし、「聖人君主」的な生き方の概念そのものも時代によって変化するはずなので、「天理」そのものも不変では無いはず。

そうなると、この概念は現実の人間にうまくフィットしない。

「この概念はおかしいぞ」と、感じる人は当時でもいたのではないだろうか。

 

おそらく朱子もこの点に、ある程度気がついたようだ。

「性」を「本然の性」と「気質の性」という二重性において捉えた。「本然の性」が即ち「理」であるが、人間の肉体が「気」によって成り立ち、心が肉体に依存している以上、「気」の状態によって「性」のあり方も一様ではなく、現実的にはさまざまな「気質の性」として「性」は個々人の心に存在するという。

江戸幕府儒学者P58)

苦し紛れの言い訳に近い。

だが、何とかこれで現実の人間の心に近づいた。

「人間」の肉体は、個々それぞれ違う。
「気の流れ(いわば原子のようなイメージ)」によって造られる五行、つまり「火・水・木・金・土(曜日の順に並べました)」(分子のイメージ)」の配分で、物質が造られているのだから、人間も一人一人みんな違う「気質」をもっている。

だから、人は「本然の性」だけではなく、個性的な「気質の性」ももっているのだ、と説明する。

 

苦難の末に編み出した論理だろう。

この「性(気質)の概念」よって、人間は一人一人がその人の『個性的な「理」の理解』が、可能になった。

 

『人は、個々異なる』
という理解が可能になった。
だが、『「天理」(正しさ)は、太極として存在している』、という根本概念を自己否定してしまっているのではないだろうか。

 

ところが、朱子学はそんなにヤワではない。『「本然の性」(天理)は、揺るがないモノとして存在している』という根本概念は崩れない。

『絶対「善」など、あるはずがない』とは、微塵も思わないようだ。

「本然の性」は人間における「理( 天理)」であるから絶対的に善であるが、「気質の性」は欲望( 私欲)のために混濁し不透明であり、悪の要素を含んでいるものとされる。つまり人間の犯す悪は、欲望( 私欲)に由来すると考えられた。現実の世界には善悪さまざまな人間がいるが、「気質の性」か透明で「本然の性( 天理)」を実現した人間が聖人であり、「気質の性」の混濁の程度がひどく、欲望のままに行動する人間が悪人~

江戸幕府儒学者P58~59)

本然の性と気質の性によって、聖人と悪人を説明している。

この概念は、わかりやすい。

朱子学の修養論

朱子学では、「気質の性」を「本然の性」に近づける修養が必要になる。

その方法が、朱子学のキーワードとして有名な「格物窮理(かくぶつきゅうり)」だ

「物にいたりて理を窮(きわ)む」と読む。

「格物窮理」とは、どのような修養法か

「格物窮理」について、筆者は次のように説明している。

朱子学において人間は「理」に従って生きねばならないとされる。『朱子語類』に「道なるものは人事当に然るべきの理」というように、それが道徳である。そのためにはまず「理」というものを個々人が客観的に明らかにし会得しなければならないとされ、観察によって一事一物に内在する事理・物理に到達し、それを究極にまで窮めて大きく宇宙に一貫する「理」を見出すよう努力する~

江戸幕府儒学者P60)

ここで、思考が乱されるのが『「理」とは「道徳だ」』という言葉だ。

朱子学で言う「理」は、「物理法則」ではない。だが『「観察」によって一事一物に内在する事理・物理に到達する」』とあると、「理」は単に「道徳」だけを差すのでは無く、「物理法則」もさすのではないか、と疑いたくなる。

 

心は乱されるが、筆者の示すものだけを表面的に読むなら、「一つの出来事」にも「理」が存在し、「一つの物質」にも「理」が存在する。

「出来事に、道徳」が存在するのは分かるが、「物質の中の道徳」とは、何だろうか。

 

自分の「性」を主観的に把握する

「格物窮理」、それぞれの一事一物から、「天のあるべき道徳(本然の性)」を究明するだけでは足りない。
それを受け取る、自らの「性(気質の性)」について分析する必要がある、と指摘する。

自分の内部にある「性」のあり方をも主観的に把握することが求められるが、そのための方法として提示されるのが「居敬存養(きょけいそんよう)」(慎み深い生活態度を保ち、本然の性を養い育てる)である。

江戸幕府儒学者P60)

 

どうしたら自分の「気質の性」を分析して主観的に把握することが出来るか、について上記の様に説明されている。

これ、日本語として成り立っているのだろうか。

 

『自分の「(気質の)性」の在り方を主観的に把握する方法が「居敬存養(きょけいそんよう)」だという。

「居敬存養」とは、『慎み深く生活し、自らの「本然の性」を養い育てる』という生活態度のことをいう、と。

生活態度が、どうして「(気質の)性を主観的に把握する方法」になるのだろうか。

生活態度は、分析の方法に成り得ないのではないか?

 

表現されていない部分を、想像で補って考えるに、

『それぞれの一事一物に内在する本然の性と自分の気質の性を、「慎み深く日々の生活を送る中で」比較して、自分の気質の性の足りない点に気付く」これが、主観的な把握、つまり分析だということなのだろう。

 

あくまでも「これが真の道徳だ」という不変の「モノ」が、この世界には存在している、という大前提だ。

儒教的な仁義八行「仁義礼智忠信考悌」や五常「親義別序信」がこれに当たる。
(9月27日記す)