香島郡の建郡と社殿の建築について p11
香島郡の条
- 古い翁が言うことには、
- 難波の長柄の豊前のおおみやに(大朝)
- あめのしたしろしめししスメラミコトの世
- ツチの酉の年
- 大乙上中臣の○○子、
- 大乙下中臣部の兎子ら、
- 惣領高向のオオマエツギミにこいて
- 下総の国
- 海上の国造の部内
- 軽野より以南の一里
- 那珂の国造の部内
- 寒田より以北五里とを割きて、
- 別に神のコオリを置きき
- そこにいませる所の天の大神の社
- 坂戸の社・沼尾の社、三所を合わせて、
- すべて香島の天の大神という
- よりて郡に名づく
- 風俗のコトバに
- 現れふる香島の国という
「香島郡の条」に、鹿島社は、三柱の神が習合して成ったことが書かれている。
「坂戸社」「沼尾社」大和朝廷の「天之大神」だ。
この三柱が習合して、「鹿島社」となった。
「坂戸社」の神と、「沼尾社」の神は、在地の神。
そこに、代々住んでいた人々が祀っていた神だった。
そこに、ヤマトの征服民の神がやって来て、在地の神を取り込んで「鹿島の天之大神」となった。
ただし、この段階では自然信仰であり、鹿島の地に大社としての建物があったわけではない。
では、建物はいつごろ建ったのか?
社殿の造営について p11
- 淡海の大津のミヨに
- 初めて使いを遣わして
- 神の宮をつくらしめき
- それよりこのかた
-
つくること絶えず
孝徳天皇の治世
- 大化5年 649年
- 鹿島神郡がつくり置かれたことが書かれている。
- 鹿島神郡の由来
天の大神社と坂戸社・沼尾社の三社を合わせて -
香島之大神と称した
天智天皇の時代
-
天智天皇は、662年~671年
-
朝廷が使いを派遣して、
-
上の宮を造営
-
鹿島社も、他の名神大社と同じように
-
天智天皇の時代に社殿を造営したことを示した記事
天智天皇以前は、鹿島社も他の名神大社も社殿をもたない神社だったということ
ここまでの記述をまとめる。
「坂戸社」「沼尾社」そして、「天之大神」が習合して鹿島社となったのは、大化の改新が勧められていた孝徳天皇の時代
西暦でいうと、649年ごろ。
ただし、その頃は、自然崇拝であり、本殿とか拝殿とかは無かった。
本殿・拝殿などの建物が造営されたのは、天智天皇のころ。
天智天皇の治世は、668年から672年。
中臣鎌足(藤原鎌足)と、中大兄皇子(天智天皇)が活躍した頃に、鹿島社の本殿・拝殿などが建てられた。
国家仏教化する仏教に対抗する意図
沼尾池について p13
- 社の南にコオリのミヤケあり。
- 北に沼尾の池あり。
- 古老が言うことには
- 神代に天より流れきし水沼なり
- 生うる所の蓮根は、
- 味わいいと異にして
- うまきこと他所に優れたり
- やめる者
- その沼の蓮を食らえば、
- 早くイエてシルシあり
- 鮒・鯉・多に住めり
- 前に郡の置かれし所なり
- 多く橘をうえるところの実ウマし
- 沼の神格化が沼尾社の第一段階
- 第二段階は、神の宿る場所として神籬をつくった
- 第三段階として、神籬のある場所に、祠をつくった
筆者は、鹿島社成立までの流れを、第一から第三の段階的にとらえている。
第一段階は、沼そのものを神格化して拝んでいた段階。
第二段階は、沼のほとりに拝む場所を設けた段階。
第三段階は、祠をつくって、神社として祀るようになった段階。
筆者は、第三段階で止めたが、三柱の神を祀るために、本殿や拝殿という明確な神社をつくった段階が抜けているのではないだろうか。
天智天皇の命によって、神社が建立された段階が第四段階だろう。
鹿島社の創建についてp13
- 鹿島社は、
- 坂戸社・沼尾社・天之大神社の三社をもって
- 鹿島之大神という神格を形成
- 地元の氏族の神と、大和朝廷の多氏が祀る神で形成
- 征服者と被征服者の融和のシンボル
神社が本殿や拝殿をもち、大社としての姿を現すのは、大和朝廷の地方統治政策の一環でもあった。
鹿島大社も、その他の大社と同じで、大和朝廷の思わくによって本殿や拝殿をもった。
神の宿る社は、裏を返すと軍事拠点。
大和朝廷の勢力拡大の拠り所だったようだ。
行方について
鹿島郡の隣の行方の条には、建借間命の活躍が描かれている。
中臣多借間命。
タケカシマは、中臣系多氏だ。
この人物は、那賀国造の祖でもある。
そして、中臣系多氏は、物部氏の配下であった。
だが、物部氏が蘇我氏との戦いに敗れて力を失う。
中央の中臣系多氏族は、物部とともに滅びてしまったらしい。
そうなると、常陸に残った中臣系多氏が、本流に取って代わり力をもった。
常陸流中臣氏の誕生だ。
鹿島社と多氏 p14
- 多氏は大・大・飫富など多数で表記される。
- 祖は、神八井耳命
- 多一族は、九州から・近畿・中国・関東・東北に渡り広く分布
- 各地方に強力な勢力基盤を築いた
- ヒタミチの那賀(仲)国造の祖
- 建借間命も、常陸国風土記でも、仲国造の祖とある
- ヤマト朝廷の東国進出は、
- 物部と多氏を先頭に、
- 4世紀~5世紀にかけて
日本書紀の記述p14
- 崇神天皇の四道将軍の派遣と
- 景行天皇の明を受けて蝦夷征伐に向かった日本武尊
- 上総から海路で、葦浦・玉浦を経て、
- 蝦夷地の境界・タカノ水門に至ったとする記事在り
- タケカシマ・ 建借間命
- 筑波…イバラキの地を分割して信太郡の高来の里
- 物部氏の守護神・
- 普都大神
- 天から降った
- 物部と多氏の東国進出を示している
P15
- 古老のイエラク
- シキの瑞垣の宮に
- 大八洲知らしめしし 天皇の世
- 東のサカイの荒ぶる賊をコトムケとシテ
- 建借間命スナワチ
- コハ那賀の国造が初祖なり
- を遣わしき
- イクサビトをヒキイテ
- 行くゆく
- ニシモノをコトムケ
- 安婆の島にヤドリテ
- 海の東之浦をノゾミたまひき
- 時にケブリ見えしかば
- コモゴモ
- 人やあると疑いき
- 建借間命
- 天を仰ぎて
- 誓いてイイシク
- 時に ケブリ
- 海をサシテ流れき
- ココニ 自ら凶賊有ることを知りて
- 即ちトモガラニオホセテ
- 褥食して渡りき
- 是に、
- 国栖(くず)、 名は夜尺斯(やさかし) 夜筑斯(やつくし)と日へるもの
- 二人有り。
- 自ら首帥(ひとこのかみ)と為りて、
- 穴を堀り堡(とりで)を造りて、
- 常に住めり。
- 官軍(みいくさ)を覗伺(うかが)ひて、
- 伏し衛り拒抗(ふせ)ぐ。
- 建借間命、兵を縦(はな)ちて
- 追やらしかば、
- 賊 尽(ことごと)に逋(に)げ還(かえ)り、
- 堡(とりで)をとじて固く禁(まも)りき。
- 俄にして、建借間命、
- 大きに権議(はかりごと)を起こし、
- 敢死之士(たけきいくさびと)を校閲(すぐ)り、
- 山の阿(くま)に伏せ隠し、
- 賊を滅さむ器(つわもの)を造り備へて、
- 厳(いか)しく海渚(なぎさ)に飭り、
- 船を連ね、筏を編み、
- 雲のごとく、
- きぬがさをひるがえし
- 虹のごとく旌を張り、
- 天の鳥琴
- 天の鳥笛、
- 波の随(まにまに)に潮を逐(お)ひて、
- 杵島唱曲(きしまぶり)を七日七夜、
- 遊び楽ぎ歌ひ舞ひき。
- 時に、賊の党、盛なる音楽を聞きて、
- 房挙(いへこぞ)りて
- 男女、悉尽(ことごと)に出で来て、
- 浜傾かして歓咲(ゑら)ぎり。
- 建借間命、 騎士(うまのりのひとをして
- 堡(とりで)を閉じしめ、
- 後(しりへ)より襲い撃ちて、
- 尽(ことごと)に種属(やから)を囚(とら)へ、
- 一時に焚き滅しき。
- 此の時、痛く殺すと言ひし所は、
- 今、伊多久(いたく)の郷と謂ひ、
- 臨(ふつ)に斬ると言ひし所は、
- 今、布都奈の村と謂ひ、
- 安く殺(き)ると言ひし所は、
- 今、安伐(やすきり)の里と謂ひ、
- 吉く殺(さ)くと言ひし所は、
- 今、吉前(えさき)の邑と謂ふ。
- 板来の南の海に洲有り。
- 三四里許(ばかり)なり。
- 春の時は、香島 行方二つの郡の男女、
- 尽に来て、津白貝・雑味の貝物を拾ふ。
殺戮の歴史が描かれている。
だが、遺跡などから見つかるものを見ると、ここに書かれた歴史とは、また違う姿も見える。
縄文土器と、弥生土器が混在しているのだ。
これは、何を物語るのか。
おそらく、現地民と、大和朝廷の人々が、混在して暮らしていたのだろう。