inaojiの日記

社会科教師OBの社会科系徒然語り

中臣鎌足はどこで生まれたか:常陸鹿島説と大和高市説

鹿島社と中臣鎌足 P17

神武天皇

  鹿烏社と藤原氏の関係は深く、
  始祖である中臣鎌足の出生地について
  大和国高市郡大原説と
  常陸国鹿島説がある。
  いずれも特定するに至っていない。

  丁未の乱(ていびのらん)で物部本家と、中臣系多氏の本家は衰退してしまう。
これを考えたら、中臣の本流は、有るときから常陸流の中臣系多一族が中心となったと私は思う。

だが、藤原鎌足の生まれは「大和国高市郡大原説」が主流だという。
ちょっと納得できないが、現時点では資料が足りないか…。

 

大和国高市郡大原説

  『大職冠伝』に鎌足高市郡の人
  御食子の長子
  母は大伴夫人
  豊御炊天皇推古天皇)22年(614年)に
  藤原第で生まれたと

 

常陸国鹿島説

大鏡』の巻五
  藤氏物語を根拠

  『大鏡』は物語性が強い
  鎌足不比等の功績などに
  記載間違いが多い
  信憑性が低いとの評価が定着している
  常陸国鹿島説は
  中臣氏の東国進出後、
  鹿島社との関係が成立したのちに流布した
  二次的な説との見解あり。

大鏡が、根拠となる資料だというのでは、定説となるのは難しいだろう。

だが、『中臣氏が東国へ進出した後に、鹿島社との関係が成立し、その後に鎌足が鹿嶋出身だという説が生まれた』
という考え方には、賛成できない。

・『中臣氏が東国へ進出した後』というのは、いつ頃を言っているのか?

ナカトミノオオカシマノミコト(建借間命)が、ナカへ進出し、鹿島・行方を制覇したのは、遅くてもおそらく4世紀~5世紀のはず。

鎌足生誕の200年、300年は前の話だ。

この『中臣氏が東国へ進出した後』とは、孝徳天皇の時代のことを言っているようだ。
「坂戸社」と「沼尾社」を併合して(土着民族を平らげて)、「天之大神」が在地の神を飲み込んで鹿島社ができた。

つまり、大和朝廷(中臣系氏族)が、在地勢力を掌握した。
だから乙巳の変以後の大化の改新のころ。
だから、それ以前に生まれた鎌足は、大和で生まれたということ。

整合性はあるが、心情的には、丁未の乱後に中臣系氏族の本流が常陸流中臣氏族にうつり、鹿島周辺を中臣系多一族がすでに掌握していたと考えたい。

これ以上は、文書資料その他の明確な資料が出なければ、無理だ。
しばらくは、大和説主流が続くだろう。

 

  鎌足を祀る談山神社(たんざんじんじゃ)の
    『多武峯(とうのみね)縁起』では
  大和国高市郡大原説を主としながら
  常陸国鹿島説を併記
  
  推古天皇二十二年
  甲戌八月十五日
  大和國高市郡大原藤原第に於て生れる。
  或説に云う、
  常陸國鹿嶋郡に於て生まれる。
  すなわち鹿嶋神これ籐氏の氏神なり

   

大和国高市郡大原説は 、
  藤原第を誕生地としている
  
  鹿嶋説
  鎌足神杜周辺の小字名に
  「藤原」という地も
  
   常磐流中臣
   鹿島・香取 を中心とする
  常陸国出自の中臣氏が
  本宗中臣氏の没落後、
  本宗の座を継ぎ、
  鎌足常磐流中臣氏出であると

 

加藤謙吉氏の論文

王権の手により神祇支配の強化と
  祭祀機構の整備
  本来独立して神事・祭祀や呪術的技能に携わっていた
  諸集団の中から、
  個々の専門職・技能により切り離され、
  「中臣」という統轄的伴造職
  就任する集団が現れたと想定
  「中臣」職に就いた者たち
  職名にもとづき「中臣」をウジに負う

  中臣氏には
  カバネや出自を異にするいくつかの系統の一族が存在
  主体をなしたのが
  連姓を付された鎌子・勝海系の中臣氏
  この一族と
  始担である児屋根命を共有し、
  その同族に列したのが
  東国鹿嶋・香取の卜占集団
  丁未の役を契機に、
  常磐流の一族は
  傍流から中臣氏の本流の座に昇り
  中央の神職の座を独占
  管轄下の専門・技能集団、
  在地の神・祭祀団への統制を強め、
  彼らと擬制的な同族関係を形成していった

この説を支持する。

確かに、建借間命の時代に中臣系多一族が常陸の国にある程度の勢力基盤をつくったのは、4世紀~5世紀にかけてだろうか、中央での力は弱かったはずだ。


常陸流中臣多氏族が、中央でも一定の勢力をもつようになったのは、

丁未の乱後、
丁未の乱は、

587年7月
蘇我馬子
物部守屋追討

馬子は厩戸皇子泊瀬部皇子竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率い
河内国渋川郡の守屋の館へ進軍

 

つまり、常陸流中臣氏が中央で力を持つようになるのは、おそらく590年~600年ごろにずれるはず。

 

こう考えると、鎌足が生まれたとされる614年は、中央で主流なのは常陸流中臣氏となっていたはずだ。

常陸流中臣が、力をもってから10年程度時が過ぎていただろうか。

鎌足が生まれたのは、大和だったかもしれないが、どう考えても、ルーツは常陸にある。

   

 滕氏家伝 

鎌足大和国高山郡藤原第で生まれたとする
  『大鏡』の説はまったく信用に価せず、と主張
  中臣氏の東国進出により鹿嶋社などとの関係が成立した後、
  二次的にこのような説が流布されたとする
  
  しかし 常陸流中臣氏の故地が常陸であった事実
  『大鏡』が鎌足常陸誕生説を説いたとすれば、
  決して的はずれな解釈とは言えず、
  むしろ史実の一端を伝えていると見ることが可能   P21

確かに、「籐氏家伝」では、大和説を主張する。
そうなのかもしれない。

だが、史実から推し量ると、当時の中央の中臣は、常陸流中臣のはずだ。
ルーツは、常陸にある。

常陸国一之宮 鹿島神宮の研究』のP21まで