陽明学とは、どのような学問か:「陽明学から学ぶ生き方の極意」とは(その1)
守屋洋さんの「陽明学の生き方の極意」という本を読んでいる。水戸学の祖、徳川光圀(黄門様)の師である朱舜水の説く儒教は、陽明学に近い。江戸時代は、林家の朱子学が主流だが、「水戸学の根本思想は、種子学の批判から始まった陽明学にあるのでは」、と思う。つまりは「水戸学の特徴は実学」だ。その上で。改めて「朱子学と陽明学の違いは何か」。そして、「陽明学に従った生き方の極意とは何か。」を考えながら、この本を読んでいる。
陽明学と朱子学との違い
今まで、何冊か自分なりに儒学・朱子学・陽明学について読んできている。だが、自分で「ストンと分かった」という理解まで達していない。
どうも、今までに読んだ解説書が私には難しいのだ。
その中で、守屋さんの書いた「陽明学の生き方の極意」はダントツわかりやすい解説書だと思う。
朱子学とは何か
この中で、朱子学とは何か、という問いに対する答えを極荒く、極簡単に言うなら、
朱子学とは『「理」を極めることが究極の目標』だと、説明されている。
まあ、なんとなくわかる。
だが、この場合の「理」とは何なのかが良くわからない。
法則のようなもの?
科学的な証明できる公理のようなもの?
イマイチ、ピンと来ていないのだが、
朱子学は、
「すべてのモノには、「理」が存在しているので、モノの「理」を知ることが大切だ」と説く。
すなわち、
「格物致知」
「格物」、つまりそれぞれの物には、全て「理(ことわり)」がある。
だからまず、その「理」を知ることから始めなければならない。
『その「理」は、先人の残した古典の中から学ぶことができる。』
『まずは、机にかじりついて「先人の残した古典から「理」を学べ。』
すなわち
「先知後行」
「知識を得ることが先。行動することを極力抑えて机にかじりついて勉強しろ。」
というイメージか。
『ガリ勉のすすめ』というところだろうか。
陽明学とは何か
「ガリ勉のすすめ」の朱子学に対し、「そうではないでしょう。知ることと行うことは、別物では無いですよ。」
と、批判し、
「知行合一」
を説く。
知ることと、行うことは一体。
「書を捨て、街に出よう」というキャッチフレーズがあったが、時代の大きな流れの中で、このキャッチフレーズも繰り返されて来たようだ。
陽明学の祖、王陽明は、「知行合一」という考えに行き着くにあたって、
「心即理」という考え方も生み出している。
朱子学も、陽明学も「儒教」。
つまり、「理」を追究する点では変わりがない。
大きく違うのは、朱子学が「全てのモノに内在する「真理」の追究に対し、
陽明学は、「理」は「自分の心の中にある」とする点。
ここで、またわからなくなる。「理」とは何なんだ。
もし、法則とか、公理とかいうモノなら、当然「人の心」の外にあるでしょう。
だが、陽明学のいう「理」、「自分の心の中にある『理』」といった場合は、別の意味になる気がする。
この場合の理とは何だろうか。
朱子学の「心」の捉え
朱子学は、心を「『性』と『情』の二つから捉えている。」
そして、『理』は、『情』の中にある、としている。
これは、どういう意味か。
『理』は、心の外にあるのではないのか?
こんがらがるが、
『理』は、「人の心の『性』の中に蓄えられる」という意味だと理解することにした。
理は、性の中に蓄えられ、それを使うことで、人は正しく行動することができる。
だが、人の心には、もう一つ「情」がある。
陽明学の心の捉え
だが陽明学は、どうやら心を分けて捉えないようだ。
「心即理」
「理」は外にあるのでは無く、「初めから我が心の内にある」
という。
分かったような、わからないような気分だ。
この場合の「心」とは何だ。
人間の性質、「今までに学び体験したこと全てによって培われた『性』」と、それをコントロールする『情』が一体となったモノに、すでに真理は隠されている。
だから、自分の心と向き合え、
そういうことのような気もするが、
もしそうだとしても、
「理」とは何か
「心」とは何か
「知行合一」とは何か
私には、実はよくわからない。
この本の20%程度を読んだところだが、頭がいっぱいだ。
続きは後日にしよう。
まとめ