inaojiの日記

社会科教師OBの社会科系徒然語り

承久の変の歴史的意義鎌倉幕府の特徴とは

2代執権 北条義時

 

 

 

 

 

目次

 

鎌倉殿の13人の、鎌倉殿とは誰のこと

   鎌倉殿と聞くと、多くの人が頼朝を思い浮かべる。この場合「鎌倉殿の13
人」とは、頼朝の主だった13人の家来と理解するだろう。
 大河ドラマでも、6月まで大泉頼朝を引っ張っているのでそうとらえている
のかもしれない。だが本来は違う。
 「鎌倉殿」は、頼朝だけを指す言葉ではない。
◯ 鎌倉殿とは、鎌倉幕府の中心人物のこと
 必ずしも、頼朝だけ、将軍だけを指していない。だが、鎌倉殿の13人と限定
した場合の鎌倉殿は、2代将軍頼家を指す。

鎌倉幕府150年のうち 源氏の家系が将軍だったのは何年間か

 初代頼朝が、1192年~1199年の約8年
 2代頼家が、1202年~1203年の約2年
 3代実朝が、1203年~1219年の約17年
 合計しても30年に満たない。

改めて 鎌倉殿とは誰のことか

 頼朝をはじめ、歴代の将軍というとらえ方。
 では、「尼将軍北条政子」をどうとらえるか。もちろん北条政子は将軍では
ない。しかし、実質的に鎌倉幕府を支える人物として、尼将軍と称されたとき
北条政子は、鎌倉殿であったと言える。
 また、大河の主人公北条義時はどうか。北条義時も鎌倉殿であったといって
よい時期がある。つまり鎌倉幕府その時々の中心人物は鎌倉殿

北条義時とはどのような人物か

 北条義時は、鎌倉殿の13人の一人だった。
 北条義時について確認しておく。
 
 北条氏は、伊豆国田方郡北条が苗字の由来。義時は、北条時政の次男とさ
れ、北条氏の土台を築いた人物。
 北条氏の安定は、承久の変(教科書では乱だが、本来、天皇上皇が乱を起
こしたというのは変だ。竹田恒泰氏の教科書では承久の変が正しいという。こ
のブログでも竹田氏の説をとり、承久の変とする)の勝利による。
 この勝利によって、鎌倉幕府が最も安定する時期となった。承久の変で実際
に活躍したのは、義時の息子の泰時(3代執権)たちだが、バックに構え、ま
だまだ健在だった義時の存在は大きい。

 

承久の変の歴史的意義 鎌倉幕府の特徴とは

 鎌倉幕府が承久の変で勝利したことにより、世の中はどのように変化した
か。
 岩田慎平氏は、「武家優位の公武関係が確立した」という。ストンとわか
る。
 これに対して、ある歴史家は、鎌倉幕府を「朝廷に自立した政権」と表現す
る。
 この歴史家のこの表現だと、「幕府は朝廷と全くかかわりを絶った政権」の
ような印象を持つ。
 おそらく、そうではない。かかわりはあるが、以前のかかわりと違うかかわ
り。日本の歴史で初めて朝廷とのかかわりで、武家が有利な状態を実現した。
 この点で鎌倉幕府の承久の変の勝利は、歴史の大きな転換点となった。

 鎌倉幕府、とりわけ承久の変を経て、歴史は「自力救済」の時代に突入する。

以下、鎌倉幕府の特徴について述べる。

 

鎌倉幕府の政治体制は3つの段階を経て変化した

 北条氏の土台を築いた義時は、父の代と自分の代の二代に渡り源頼朝に仕
え、執権政治の基礎を確立した。
 執権とは、本来は将軍の補佐だが頼朝の死後は、合議による政治体制とな
る。
 この合議をしたのが鎌倉殿の13人。

鎌倉幕府の政治体制の3段階の区分とは

 鎌倉幕府の政治体制は、3段階に区分できる。
 1 将軍による独裁制
 2 執権政治(合議体制)
 3 得宗による専制

 この3つの区分。鎌倉殿の13人の時代は、将軍による独裁の時代と、得宗
よる独裁の時代に挟まれた合議による政治体制の時代だった。

 

頼朝の征夷大将軍就任

 1192年、頼朝は征夷大将軍となる。頼朝を征夷大将軍に任じたのは朝廷であ
る。幕府は朝廷から完全に自立したわけではない。
 1195年に頼朝は、娘の大姫を鳥羽天皇に入内させることを計画する。
 頼朝はなぜ、優位に立ったはずの朝廷に自分の娘を嫁がせようとしたのか。
 対朝廷対策としては、朝廷に対する関係を切らずに優位な位置を継続させる
ため天皇の舅のポストを狙った。
 また、対東国武士に対しては、将軍独裁体制を維持するために、更なる家格
上昇を試みた。そういうことに思える。

 しかし、この計画は頓挫する。大姫が入内することなく1197年に亡くなった
からだ。

 そして、この2年後頼朝自身も不可解な死に方をする。落馬の傷が原因だと
いう。果たして武家の頭領が、落馬によって死ぬだろうか。

 

頼朝の後継者 頼家

 頼朝の後継として、源通親との一件があるがここでは触れない。頼朝の子の
頼家が、二代将軍となった。
 この頼家の元で発足したのが、鎌倉殿の13人による合議制だった。13人と
いうのは、


 北条時政、江間義時(北条義時
 三浦義澄、八田知家和田義盛
 比企能員安達盛長足立遠元梶原景時

 

<文官> 

 大江広元三善康信
 中原親能二階堂行政
  

 「家の子の専一」と頼朝に称された義時は、当時はおそらく北条というよ
り、江間氏として認識されていたろう。
 その義時をはじめ、板東の実力者がそろった。
 八田知家は、私の住まう常陸の国からたった一人13人に加わる。頼朝の乳母
寒河尼の縁者。また多くの者が頼朝の縁者だった。安達盛長足立遠元、比企
能員は、頼朝の面倒を見てくれた比企尼の縁者
 二階堂行政は、熱田大宮司家の縁者など。

 

北条の脅威となる人物の粛清

 北条時政は、北条家にとって脅威となる人物を次々と滅ぼしていく。

梶原景時の粛清

 1200年、武将として力を持っていた梶原景時がまず粛清される。
 

二代頼家と比企氏の滅亡

 2代将軍頼家は比企氏との関係が深い。頼朝の頃は、時政が頼朝の舅として
源氏と北条の関係は強固だった。しかし頼家の時代になると、比企氏と源氏の
関係が強まっていく。比企能員の娘、若狭局が頼家の妻となり、頼家と比企氏
の娘の間に男の子(一幡)が誕生していた。このままだと、北条に変わって比
企氏が力を持つことが予想された。
 そんな状況の1203年に、頼家が病で危篤となる。頼家が死ねば比企の血を引
く三代将軍が誕生することになる。
 そこで、北条氏はどのような行動に出たか。、政子の命令ということで、比
企一族(子の一幡も含めて)を皆殺しにしてしまった。
 比企氏滅亡の後に、頼家は奇跡的に回復する。気がつくと、妻の一族がこと
ごとく滅ぼされている。当然激怒して北条を攻めようとする。それを察知した
北条氏によって、頼家は修善寺に幽閉され殺されてしまう。1204年のことだっ
た。
 自らの子、自らの甥ですら容赦なく殺す。現代の感覚では考えられないが、
そういう時代だった…。
 

畠山重忠の滅亡

 畠山重忠は、当時武士の鏡と称された人物。重忠については何の過失も無か
った。
 畠山氏滅亡の経緯は本当かと思えるようなことを発端とする。
 比企氏を滅ぼして間もない1204年、畠山重忠の息子の重保と、時政と牧
の方の娘婿の平賀朝雅が酒の席で諍いを起こす。酒の上でのケンカだ。
 頭にきていた平賀朝雅は、義母である牧の方に告げ口をする。その告げ口を
真に受けた牧の方は、時政に畠山追討を進言した。
 牧の方は、単純に義理の息子を馬鹿にした畠山が許せなかったのかも知れな
い。しかし、時政は何を考えたろう。単に義理の息子を馬鹿にされたというこ
とを理由に畠山氏を滅ぼすだろうか。
 武士の鑑とされる畠山氏を警戒し、滅ぼすための理由ができたと喜んだのか
も知れない。

 時政 義時に畠山追討を命じる
 首尾良く、畠山重忠を討った義時ではあったが、畠山氏を討ったことは東国
武士団の間にも、北条氏への不信感を高めたろう

 

牧氏事件

 梶原景時、比企氏と頼家、畠山重忠を次々と滅ぼした北条氏。鎌倉幕府
は、頼家の次の将軍を誰にするかということで揺れていた。
 1205年、実朝は、14歳。今で言う中学2年生の年齢。頼りなさを感じ
る者もいたろう。時政と牧の方は、なんと、畠山氏を滅ぼす原因となった娘
婿、平賀朝雅を次の将軍にしようとしていた。朝雅は、頼朝の猶子(実の親子
では無いが、親子関係を結んだ子)であったため、資格が無いわけでは無い。
朝廷からの覚えも良く、すでに官位も高い壮年だった。中2程度の子どもと比
べたら、平賀朝雅の方が有利だった。
 これに対し、義時と政子が否を唱える。政子の子である実朝を3大将軍にさ
せなければならなかった。そうしないと義時は北条の亜流となってしまう。ま
た、政子にしても、将軍の母の座を追われてしまう。
 ここで、義時は父時政と袂を分かつことになる。義時は、父を幕府から追放
し、三代将軍実朝を実現させた。

 

初代執権 北条時政(義時の父)



 

和田合戦

 和田義盛は、今までの実績を実朝に申し立て「上総の国司にしてくれ」と要
望。
 これをきっかけとして1213年に和田氏が滅ぼされる。
 和田氏が滅んだことで、義時は侍所別当となった。

 

承久の変

 和田合戦の結果、幕府は実朝と実朝を取り巻く人々による運営体制が定着し
た。
 主な人々は、北条政子北条義時大江広元三善康信、二階堂氏、伊賀氏
など。
 

実朝暗殺

 しばらくの間、鎌倉幕府は、実朝を中心に安定していた。幕府と朝廷の関係
も良かった。
 そんな中1219年に大きな事件が起こる。実朝が暗殺された。
 実行者は、頼家の遺児公暁
 古くから、この事件の首謀者、裏で糸を引いていたのは誰かという議論があ
る。単独半切、義時黒幕説など。
 岩田氏は単独犯説だが、私は義時が黒幕だったのではないかと疑っている。
  
    武力で政権を奪取した者は、その後反乱を恐れ続ける。
    岩田氏はそう述べる。
    すべての歴史に通じる名言だ。
    ウクライナの武力制圧を試みるプーチン氏は、たとえ、武力で土地をダ
    ッシュしたとしても、その後一時たりとも心の安まるときは無い。常に
    反乱を恐れ続けることになる。

 閑話休題
 公暁は、次の将軍は自分だと主張した。しかし、実力本位の鎌倉時代でさ
え、力の裏付けも無く、大義名分を欠いた暗殺では、公暁の将軍としての正当
性を認める人はない。
 公暁は、あっけなく長尾定景によって討たれてしまう。

北条義時追討の企て

 朝廷と実朝鎌倉幕府は、共存態勢がとれていた。しかし、突然の実朝の死に
朝廷は困惑する。
 その困惑の中、後鳥羽院は義時追討を企てる。
 岩田氏は、あくまで義時の追討で鎌倉幕府転覆をねらっていたのではないと
主張。そうではないかと私も思う。
 後鳥羽院は、自分の後ろ盾となる武力が欲しかったはずだ。自分の意を組ん
でくれそうも無い義時は滅ぼしたいが、朝廷の言うことを聞く鎌倉幕府は必要
だった。
 ということで、義時の追放は考えたが、鎌倉幕府の転覆は考えていなかった
という説に賛成。
 

北条政子の激

 承久の変であからさまに朝廷に弓を引く時に、あの有名な北条政子の檄が飛
ぶ。
吾妻鏡』によれば、政子は

 「皆、心を一つにして奉(うけたまわ)るべし。
これ最期の詞也(ことばなり)」と口を開いた。「故右大将軍」頼朝が朝敵を
征伐して「関東」(鎌倉幕府)を草創して以降、御家人たちは「官位」も「俸
禄」も手に入れた。「その恩は既に山岳よりも高く、漠渤(めいぼつ・海のこ
と)よりも深し」「報謝の志(恩に報いる思い)」は浅いはずがない。今「逆臣
の諜(ざん)によつて義に非ざる綸旨(りんじ)を下さる」、つまり謀叛を企
む悪臣の讒言(ざんげん)によって後鳥羽が道理に背く勅命をお下しになっ
た。「名を惜しむの族(やから)」は「秀康・胤義等」を討ち、「三代の将軍
の遺跡」、つまり三代にわたる将軍が残した遺産を守るように。ただし、「院
中に参らんと欲する者、ただ今申し切るべし」
 後鳥羽の側に付きたければ今すぐ申し出よ、と言い放った。

  実は、この檄文は政子の口から発せられたのでは無い。安達盛長の子、景
盛による。大河ではこれをどう描くだろうか。テレビ的には、政子本人の口か
ら発せられるように描く気がする。乞うご期待。

 

なぜ鎌倉幕府は、後鳥羽院に勝てたのか

 一言で言えば、迅速な行動にある。
 もちろんこの迅速な行動を促したのは尼将軍政子の激による。しかし、それ
だけではない。その日のうちに北条泰時が進軍したのは、大江広元三善康信
の進言に寄る。
 『体勢を整えてから』などという悠長なことをいっていたら、朝廷側は迎え
撃つ体勢を整えてしまう。今すぐに進軍すべし。結果的にこの進言が戦いの勝
敗を分けた。
 泰時は、宇治川の戦いで幕府側に勝利。この勝利は、各地の朝廷側の武士た
ちが、各地方地方で対立していた幕府側の武士を倒そうと個別に戦っていたた
めだ。そのため『宇治川の戦い』に、朝廷側の武士たちの多くが間に合わなか
った。
 すぐに泰時軍の進軍を進言した、幕府側の大江氏や三善氏という優秀なブレ
ーンの存在が、承久の変の勝利を呼び込んだ。

 

承久の変後の公武関係

 承久の変の後、後鳥羽院隠岐の島に流された。また、順徳院は佐渡が島
へ、土御門院は、父である後鳥羽院が流されるのに自分だけ都に留まることは
できないと、自ら土佐へ下った。
 天皇皇位継承は、三種の神器が継承されることで成立する。しかし、平家
滅亡時に神剣を失う。神器の継承ができないので、代わりに院が皇位継承の承
認を行う。だが、この時点で院がいない。ふさわしい人物も見当たらない。そ
こで、ウルトラCを考え出した。
 高倉天皇と七条院殖子の子の守貞親王天皇経験が無いままに後高倉院とし
た。守貞親王はこのとき仏門に入っていたが還俗した。この後高倉院によっ
て、後堀河天皇が即位。
 前代未聞のこの策は、三浦義村による。
 

鎌倉幕府とは、どのような特徴をもつ政権だったか

 鎌倉幕府の特徴を短く言えば『王権守護』と『自力救済』
 この2点に集約される。
 ・王権守護とは、文字通り王権である朝廷を守護すること。
 ・自力救済とは、自らの荘園をまもるために朝廷の力を当てにするのでは無
く、また朝廷の指図を受けること無く、自らの荘園を自らの力で守り抜くこ
と。
 ◇ 鎌倉幕府以前

  『王権守護』『王権の権威による救済』の社会
 ◇ 頼朝、頼家、実朝の源氏3代の鎌倉幕府は、
  『王権守護』>『自力救済』の社会
 ◇ 義時から泰時、それ以降は
  『王権守護』<『自力救済』の社会
    このような特徴を持つと結論する。

 

義時以後

 義時は、1224年没
 政子は、1225年に没。
 この後、泰時による得宗と身内人による独裁の時期に移っていく。
承久の変で勝利した義時と政子の率いる鎌倉幕府ではあったが、義時や政子の
死の時も近いころ、義時後の執権を誰にするか、実質的な鎌倉殿であった政子
の後、実朝の後の四代将軍を誰にするかという問題があった。
 義時の後継は誰になるのか。すんなりと泰時になったのでは無い。承久の変
で活躍した泰時と、義時と義時の後妻の伊賀の方の子の政村との間で争いがあ
った。(伊賀氏事件)結果は、泰時の勝利。

 

摂家将軍

 四代将軍としては、一時摂政を解任されていたが再度復帰した藤原道家(九
道家)の子が、鎌倉に下って将軍となった。摂家将軍 源頼経だ。