inaojiの日記

社会科教師OBの社会科系徒然語り

最後の三河侍・川路聖謨

最後の三河侍・川路聖謨(かわじとしあきら):旗本とは何か

世に御旗本というもの、江戸に生まれ、緒家に尊ばれて人情に通ず他人物。人情の機微に溢れた人こそ、旗本と評されるべき。幕末の偉人、川路聖謨はそういった点で、最後の侍の代表である旗本であった。

幕末期にロシアと対峙した川路聖謨とは、どのような人物だったか

川路聖謨

川路聖謨(かわじとしあきら)は、黒船が次々に日本にやって来た嘉永6年(1853年)ごろ、実質的な全権をもつ幕府の代表者として、ロシア使節団と長崎で交渉した幕臣

『東洋金鴻』の著者。

川路聖謨は、異能の人

享和元年(1801年)4月、日田(大分県)大官所下役の内藤吉兵衛の長男として生まれた。

聖謨がまだ幼少の頃に、一家で江戸に移住している。
12歳の時、川路美房のたっての願いで、川路家に養子に入った。
実務に優れ、18歳で支配勘定出役。
23歳で、旗本格の評定所留役に抜擢。
下級武士としては異例の出世を、若いうちから遂げている。

さらに佐渡奉行、普請奉行、大坂町奉行とトントン拍子で出世を続けた。
嘉永5年(1852年)9月には、幕府の勘定奉行(今で言えば財務省)に取り立てられた。
このとき家禄は500石。海防掛(かかり)も兼任している。

川路聖謨座右の銘

川路の座右の銘としていたのが『艱難汝(かんなんなんじ)を玉にす』。

「山より石を掘り出し、打ち砕きて火にも入れ、水にも入れ、百辛苦をつみて精金となる也。これに同じ。これ我が喜び也」

「孫・子に良き衣着せ、うまきものを与えんとて、人を恵むこと知らぬものは、その子孫、吃人(きつじん・物乞い)・非人のごとくなるか、或いは家断絶すること疑いなし。以上のこと、十人に八・九人は間違いなし。五十年もたてばよくわかる也」

川路聖謨の妻自慢

「わが妻は江戸で、一、二を争う美人でござる」
と、川路は自分の妻を自慢する。

「妻をおいて長崎に来たためか、機会あるごとに妻を思い出しております。何とか忘れることができる、よい方法はござりませぬか。」
嘉永6年(1853年)、ロシア使節団の艦船に幕府交渉団が招かれたとき、その昼食会で川路がロシア側の参加者にこう言った。

川路のこの一言で、難い雰囲気の座は一遍に和んだ。
ロシア使節団の全権大使プチャーチンは、川路のそばまで来て、
「長く妻に会えないことに関して私などは貴公の比ではない。貴公の心をもって私のことを考えてくれたまえ」
と、川路に語ったという。

もちろん、川路は「妻自慢をし、妻に会えないと淋しい」とプチャーチンに語れば、どういう反応が返ってくるかを事前に考えていた。

このあたりが、川路が「異能の人」と言われたゆえんだろう。

「ロシア人は、どういう話をすれば和むのか」について事前情報を調べていたのだ。

人をたらし込むための方法を分析し、実行するタイプの人だったのだろう。

川路の日記を見ると、
「異国人は、妻のことを言えば泣いて喜ぶという」
という事前情報があったと書かれている。

川路聖謨としあきら)の実力にロシアも脱帽

川路聖謨とロシアのプチャーチンの会談は、翌年にも伊豆・下田で行われている。
このとき、「肖像写真を撮影させて欲しい」とロシア側から川路に何度も要請した。

だが川路は、
「生来の醜男(ぶおとこ)、老境に入り妖怪の如くなるを『日本男子なり』など申されると、本朝の美男子は心穏やかではなく、またお国(ロシア)の美人に笑われるのはイヤでござる」
と断っていた。

すると、プチャーチンは、
「ロシアの女性のうちバカは男の善し悪しを論じ、才人は官の善し悪しを論ず。男の美悪を論ずるは愚。ゆえにご懸念に及ばず。」
と言ったという。

プチャーチンのこの一言で、我々後世の人間も川路聖謨の想像写真を見ることができる。「でかした、プチャーチン」と言いたい。

ロシアの文官ゴンチャロフの川路評

「川路を、私たちはみな気に入っていた。(中略)彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論をもって知性をひらめかせたものの、なおこの人物を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の一言一句、一瞥(いちべつ)、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達を顕(あらわ)していた。
と、ロシア側の「渡航記」にゴンチャロフは川路に対する評価を記している。

幕末期の江戸幕府にも優れた人物はいた

江戸幕府が滅びたのは、幕府機構の金属疲労だ、とする見方が根強い。
だが、末期の江戸幕府内の要人にも、優秀な人物は多くいた。
川路聖謨としあきら)も、そういう幕府の才人の一人だった。

まとめ

川路聖謨という名は、学校では教えられない。
だが、間違いなく日本の頭脳の一人だった。
日本は、明治期にロシアと戦果を交えることになる。
当時の一番の敵は、アメリカというより、ロシアだったろう。
その難敵に、川路聖謨は日本を占領させなかった。圧倒的な武力をもつロシアに、ユーモアも交えながら対峙した英雄だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

林家二代目:鵞峰の業績「本朝通鑑の完成」

林家二代目:鵞峰の業績「本朝通鑑の完成」

令和5年10月7日・土曜日
久々に「江戸幕府儒学者の続きを読んだ。第八章「林家塾の教育体制」について読んだ。この章は、林家の学塾(昌平黌になるまえの林家の家塾)の教育体制についてまとめられている。だが、研究者でなければ、林家の教育システムについては、一読しておく程度でよいだろう。
付随する、「林家二代目鵞峰の業績としての『本朝通鑑』の完成」と、「鵞峰の長男梅洞(ばいどう)の死」について記すことにする。

親子三代にわたる林家の念願、『本朝通鑑』の完成

林家の祖、林羅山は、『朱子学を普及するため、幕府が学校をつくるべきだ』と考えていた。

実際羅山は、徳川家康に学校創設の建白をしている。
家康も賛同し、学校創設に向け動き出していた。だが、時期が悪く慶長19年(1614年)大坂冬の陣が起こり、学校創設の話はうやむやになってしまう。

大阪の陣が終わり、徳川の天下が確定したので、羅山は幕府官立学校の創設を再び将軍や幕閣に働きかける。

だが、将軍も幕閣も学校創設の熱意は示さなかった。

羅山は仕方なく、家塾によって門人教育をすすめていた。

三代将軍 家光の朱子学に対する姿勢

江戸に居を移していた林家は、寛永7年(1630年)三代将軍家光から上野忍岡(しのぶがおか)に5353坪という膨大な土地を賜った。

羅山は、この土地に林家の塾舎を建てた。そこには、後に湯島に移されることになる孔子廟も建てられていた。

林家二代目 鵞峰 家塾を引き継ぐ

初代羅山は、明暦3年(1657年)に死亡している。後を継いだ林家二代めの鵞峰(がほう)は、四代将軍となった家綱から500両の金を賜り家塾の大規模修繕を行った。そして、林家の忍岡の家塾を弘文院(こうぶんいん)と名付けた。そして自らを弘文院学士と名乗るようになる。

鵞峰『本朝通鑑』の編集作業に入る

父の死で一時泊まっていた『本朝通鑑』の編集が鵞峰によって再開されたのは、寛文4年(1663年)の11月1日からだった。
1663年というのは、武家諸法度が改正(寛文令)され、キリスト教禁教が明文化された年だ。

『本朝通鑑』を編集する場所として幕府により「国史館」が建設された。『本朝通鑑』編集は、幕府の修史事業であったわけだ。

最愛の息子梅洞の死を乗り越えて『本朝通鑑』の完成

『本朝通鑑』の完成は、寛文10年(1670年)
『本朝通鑑』の編集作業、並びに林家の家塾の教育体制の確立は、鵞峰の長男『梅洞(ばいどう)』の活躍に負うところ大であった。

梅洞は優秀であり林家の跡継ぎとして期待されていた。
だが、梅洞は、24歳の若さで突然この世を去る。死因はマラリア性の熱病『瘧(おこり)』だった。

『本朝通鑑』の編集作業が始まって3年目に当たる、寛文6年(1666年)の9月1日に没している。

7月に結婚し、幸せの絶頂にあった梅洞であったが、8月に「瘧」で病臥し、わずか一月後の9月に帰らぬ人になってしまった。

あっけない死であった。

鵞峰は、最愛の息子梅洞の死を受け入れられず、その後1か月以上編集作業に復帰することが出来ず、気力を失っていたという。

だが鵞峰は立ち直り、『本朝通鑑』の編集に邁進するようになる。

 

『皇統が大陸からの帰化』という説をとる『本朝通鑑』の歴史観を、肯定することは出来ない。
だが、林家による歴史書が、このような苦難を乗り越えて編纂された事実には敬意を表したい。

 

 

 

 

ブギウギの意味:笠置シズ子はどうして笠置「シヅ子」に改名したのか

ブギウギとは何か:笠置シズ子はどうして笠置「シヅ子」に改名したのか

ブギの女王:笠置シズ子

ブギウギとは、アフリカの言葉で「踊る」とか「太鼓を叩く」とか、「離陸する(いっちゃってる)」とかいう意味があるらしい。

音楽的には、ジャスピアノでブルースを演奏するときの技法を指す言葉だという。

アメリカでブギが生まれたのは、1870年~80年にかけてで、鉄道機関がテキサスまで伸びた頃だった。鉄道が都会と繋がると、片田舎でブギを弾いていた黒人ピアニストが都会に進出しやすくなり、ブギが徐々に普及していった。

そして、1900年ごろにかけブギはアメリカの至る所に広がりやがてレコードも出るようになった。

 

日本でブギウギが流行ったのは、戦後の復興期の1940年代。
日本全国何も無くなってしまった時代であり、暗い時代だっただろうが、そんなときだからこそ、人々は前を向くことができる明るい音楽を欲した。

有名なのが笠置シズ子さん。ブギの女王と呼ばれた。東京ブギウギ・買物ブギなどで一斉を風靡する。

 

この笠置シズ子さんが、朝ドラブギウギの花田鈴子のモデル。
さて、笠置シズ子さんは、1957年に歌手を廃業している。その後は女優として女で一人で一人娘を育てている。

そして、歌手を廃業し女優一本でやっていくことを宣言したとき芸名を「シズ子」から「シヅ子」に改名している。

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ブギウギ:天真爛漫の花田鈴子(笠置シズ子)出生の秘密

ブギウギ:天真爛漫の花田鈴子(笠置シズ子)出生の秘密

ヴギウギ:鈴子の家族(相関図)

笠置シズ子:家族の相関図

天真爛漫に巣立つ鈴子。
だが、彼女には出生の秘密があった。

 

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ブギウギ花田鈴子のモデル:笠置シズ子とジャニー喜多川の関係

今一番ホットなのは、NHK朝のテレビ小説「ブギウギ」と「ジャニー喜多川」だろう。ブギウギの主人公花田鈴子のモデル笠置シズ子と、ジャニー喜多川には意外な関係がある。シズこの師であり相棒である昭和の大作曲家、服部良一(ブギウギでは、草彅剛演じる羽鳥善一)とジャニー喜多川は、家族と同様な深い関係だったのだ。

 

シズ子が歌手として頭角を表す契機となった出来事に、シズ子のアメリカ興行があった。

その時、アメリカロサンゼルスの会場でステージボーイ的な仕事をして、シズ子や服部良一を支えたのが、若ききのジャニー喜多川だった。これを縁として、ジャニー喜多川は、服部家に頻繁に出入りするようになった。

そして、この関係は、服部良一が死ぬまで続く。
良一の葬式に、ジャニー喜多川は親族席に座っていたという。

 

ジャニー喜多川が服部家に出入りしていた頃、良一の次男は7、8歳だった。

そして・・・。

 

70年も前から、ジャニー喜多川には悪癖を持ってたようだ。

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江戸幕府と儒学者④:林家の本朝通鑑と水戸の大日本史

林家の歴史書と言えば「本朝通鑑」。同時期編纂が始まった歴史書に水戸の「大日本史」がある。どちらも、江戸の初期に編纂が行われている(開始されている)。林家の「本朝通鑑」と水戸の「大日本史」には、どのような差違があるのだろうか。

江戸幕府儒学者④:林家の本朝通鑑と水戸の大日本史

林家の本朝通鑑

林家の「本朝通鑑」は、林家初代の羅山によって、その前進である「本朝編年録」の編纂が始まっていた。

だが、羅山の死や三代将軍家光の死によって、途中で中断された格好になっていた。

この事業を、再開させたのは、息子の鵞峰(がほう)であった。

鵞峰は、幕府の担当者酒井忠清に働きかけ、再開にこぎ着けることに成功する。

働きかけが功を奏し、『本朝編年録 』続編の命酒井忠清から鵞峰に下されたのは、鵞峰四十五歳の寛文二年 一六六二年十月三日のことであった。

江戸幕府儒学者(P110)

父、羅山の意思を引き継ぎ『歴史書』である『本朝編年録(まだこのときは、「本朝通鑑」という名になっていない』の続きの編纂ができることになった。

だが、鵞峰は幕府に対し不満たらたらだ。

『続編をつくれ』という命を下しは下が、幕府は十分な編集員の数をそろえなかったようだ。それに対し、鵞峰は起こっている。

さらに、資料もおもうように集まらない。幕府から公家に「資料を提供せよ」とおっ達しを出したが、公家がおいそれと武家の命令など聞くはずもなく、提出してくる資料は、誰でも手に入るレベルのものだけ。

鵞峰は、このことにも腹を立てていた。

 

羅山もそうだったが、鵞峰も「周りがバカに見える病」があったらしい。

羽林の生質は和柔にして寛厚、敏捷にして頓悟、故に決断は滞らず。然るに学力無 きが故に、余を遇すること懇ろなりと雖も、文字の談に及ばざるは惜しむべきなり。そ の眷遇 手厚くもてなすの易らざるは、是れ生質の美にして故旧を棄てざるか。
或はそれ学問せずと雖も、文学を以て諮詢に益有りと為すものか。

江戸幕府儒学者(P114)

「羽林(うりん)」というのは、大老酒井忠清のことだ。忠清の当時の官位は少将。唐の時代、「少将」のことを「羽林」と言ったので、学のある鵞峰は、大老酒井忠清を「羽林」と呼んだわけだ。

鵞峰は、上記で何と言っているかというと、

『羽林(酒井忠清)は、学が無い。だから文学の話はできない。』
と言っている。

位の高い、武士も公家も、全員バカに見えたのだろう。

大恩ある酒井忠清に、分からないとは言え文章に残してしまう人間が鵞峰だった。

こんなことを言っていると知れたら、打ち首者でしょうに…。

 

また、鵞峰はあまりに熱心に本朝通鑑の編纂にあたるあまり、周りの者を次のように表する様になっていた。

 

歴史の編纂を無用視し、猿楽(能) や茶道や碁・象戯(将棋)などを無上の娯楽とする ような俗人たちを、鵞峰は 人面畜心 という激しい言葉で罵り、歴史編纂の意義を信じて 自分は自分の道を行くだけだ~

江戸幕府儒学者(P117)

いくらなんでも、気が張りすぎだ。
肩の力を抜けよ、と声をかけたくなる。

 

鵞峰の苦労

本朝通鑑を完成させるまでに、7年以上の月日を費やしている。

鵞峰の苦労は並大抵では無かった。

その中でも、一番の苦難は、「最愛の息子の死」だった。

将来を嘱望されていた若き天才、最愛の息子「梅洞(ばいどう)」が24歳で病没してしまう。

流石の鵞峰も、しばらくの間立ち直れなかったという。

 

それでも、苦難を乗り越え鵞峰は寛文10年(1670年)に「本朝通鑑」を完成させた。

『全てのことをなげうち、「本朝通鑑」完成のために命をかけて戦った日々だった』との本人の回想も、頷ける。

林家の「本朝通鑑」は、どのような歴史史観で書かれたのか

儒教的な歴史観の基本とは

儒教的な歴史観の基本を要約すると、以下になる。

歴史的な世界を支配してい るのは天であり、天の理法を体現して道徳的な仁政を行う為政者は栄え、反対に不道徳な悪政を行う為政者は滅びる。つまり歴史というものは、天の司る道徳的な理法に基づく治乱興亡の跡である。したがって、歴史的事実を直書すれば、そこには言わばのようにおのずか ら君臣の道徳的なあり方が映し出されることになり、結果的に歴史著述からは、君としてど うあらねばならないか、また臣としてどうあるべきかという訓戒を得ることができる。

江戸幕府儒学者(P117)

この世界は、「天理(道徳)」が定まっている。
従って、「天理(道徳)」に従った政治を行う為政者は栄えるが、不道徳な悪政を行う為政者は滅びるという法則がある。

歴史というのは、「道徳的な為政者」と「不道徳な為政者」が、いれかわり立ち替わり変わっていく後のことだ。

だから、歴史をひもとけば「為政者やその従者」がどう行動すればよいか(道徳的か)が分かる。

そして、歴史から訓戒を学ぶことができる。

これが、儒学的な歴史観『鑑戒史観(かんかいしかん)』と言われる。

もう一段踏み込んだ、儒学史観『名分史観』

儒教では、「名分」を正すことが重要なテーマになっている。

名分といぅのは、名義と本分の意で、名義と本分とが一致した時に国や社会の秩序は確立されるといぅ思想が名分論である。朱子学な どではとくに父子間の名分や、君臣間の名分が問題にされた。

江戸幕府儒学者(P118)

つまり、「名分」とは、例えば「父」という名義の存在なら、「父」としての本分(父とは、こういうものだという本来あるべき姿)を実践できたときに、『名義と本分が一致した』ということになり、「名分」が保たれたことになる。

「父」は父らしく、

「子」は子らしく、

「君主」は君主らしく

「臣下」は、臣下らしく

振る舞う。「これが『名分論』」ということだ。

 

「本朝通鑑」の目指した史観は、本来は「名分史観」であった。「名分に乱れがある政権は、嘘の政権」である、という考え方だ。

水戸家の「大日本史の名分史観」から見た、林家の「名分史観」

この時期に編纂が始まったもう一つの歴史書に、水戸光圀が編纂を始めた「大日本史」がある。水戸家の歴史書儒学に従って編纂されているので、「名分史観」に沿って編纂されている。

水戸家の「大日本史」には、「三大特筆」という特徴がある。

一は、神功皇后を「帝紀」 に列せず「皇妃伝」に列したことである。仲哀天皇の妃で あった神功皇后は、仲哀天皇没 ら天皇の政務を執ったことから日本書紀 では皇后 でありながら天皇と同列に 神功皇后紀 が立てられたが「大日本史」 では名分を乱すも のとしてこれを否定した。

江戸幕府儒学者(P127)

徳川光圀

水戸学は、名分論を徹底的に追究している。

三大特筆の第一番目は、「神功皇后」を名分論に沿ってどう評価するかという問題。

日本書紀」では、神功皇后天皇と同列として扱っている。だが、光圀は、皇后はあくまで皇后であると、「名分」に従って、「帝紀」に載せずに「皇妃伝」に記録した。

 

水戸学の三大特筆の二番目は、天智天皇の子の大友皇子の扱いについてだ。

大友皇子は、大海人皇子と争って負ける。有名な壬申の乱だ。

この乱で敗北したことで、大友は失意のうちに自害をした。

戦いに敗れた皇子なので、それまでは当然天皇としては扱われていなかった。

だが、水戸の「大日本史」では、「天智天皇の後を継いだという名分は覆せない。よって、天皇として扱うべきとして、『弘文天皇』として「帝紀」に記述した。

 

さらに三番目は、『「南朝」を正統年、北朝を正統ではない皇統として評価した。』

江戸時代の光圀の時代はもちろん、現在の天皇陛下北朝の系統だ。

それにもかかわらず、水戸の「大日本史」は、名分論としては、南朝が正統であることは事実であり覆せないと、堂々と主張している。

林家の「本朝通鑑」はこの「三大特筆」をどのように表現したか

林家の「本朝通鑑」も「名分史観」に則って編纂されたはずだが、この三点については「名分論」を厳しく適用していない。

第一の 神功皇后については『 本朝通鑑』凡例に、「女帝の朝に臨むは、牝晨の戒( めんどりが時 を告げるのを戒めること。転じて、女性が権力をふるうのを戒めること)無かるベからず。然る に亦た皇種、これを妄議すべきに非ず。故に共に正統に繫けて、微意をその間に寓するも亦だ焉有り」 と記すように、神功皇后の執政には問題があったとするが、皇族については妄りに議論すべきではないとして、日本書紀」 と同じように神功皇后帝紀 に列するとい う取り扱いをした。

第二の大友皇子については、大友皇子正統論の立場を取ったが旧史の 扱いを妄りには変更しがたいとして天皇の歴代に数えることはしなかった。しかし、大友皇 子を逆臣に准ずることはせず、壬申の年を天智紀十一年として処理することで大友皇子正統論の微意を寓した。
第三の南北朝並立については、 大日本史 が明確な南朝正統論を主張 したのに対し、南北両朝の帝号と年号を併記して、軽重をつけることなく客観的に処理する という書法を採用し、南朝正統論を打ち出すことは控えた。

江戸幕府儒学者(P127)

とあるように、

神功皇后については、「みだりに皇室のことを議論すべきでは無い」として、日本書紀と同じように神功皇后を「帝紀」に書いた。

 

大友皇子については、「日本書紀」の記述をみだりに帰るのは善くないので、大友皇子天皇としては扱わない、だが逆賊という扱いはしない、と書いた。

 

南北朝問題については、「南北朝の亭号と年号を併記」して、どちらが正統だということの言及を避けて書いた。

 

この結果だけを見ると、林家の「本朝通鑑」は、腰砕けのようなイメージを受ける。

だが、水戸の「大日本史」の編纂のトップは水戸光圀であり、大抵のことでは幕府ににらまれない。

それに対して、幕府直属の儒学者の林家の人間の鵞峰は、もし幕府の意向に沿わないものだったら、発刊できないどころか、自分の命さえ危ういことになるだろう。

その編纂者の立場の違いが、内容の差になったのだろうから、ある程度差し引いて評価してあげなければかわいそうだ。

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孫のお守り:こっちの言うことがわかるようになってきた1歳5ヶ月

幼児教育の専門、七田式教室のブログに以下のような文章が載っています。

「言葉は0歳から教える」と聞いて驚かれる方もいらっしゃるのではないでしょうか?

実は、子供は小さい頃の方が、物事に対する吸収力がとても高いのです。だから、幼い頃から言葉を教えることはとても良いことで、幼ければ幼いほど、その効果は高いのです。

しかし、0歳の赤ちゃんを見ていると、「本当に吸収しているのだろうか?」と疑問に思う方も少なくないようです。言葉を教えても、理解していないように見えてしまいます。

でも!本当は「理解できている」ことを言葉や行動で表せないだけなのです。

先日、私の孫を見ていて上の指摘は『正しいかもしれない』と、思う出来事がありました。

孫のお守り:こっちの言うことがわかるようになってきた1歳5ヶ月

娘の子、つまり私の孫は、今月1歳5か月になりました。
私の家から車で30分程度の距離に住んでいる娘夫婦の家に、週に一度の割合で出かけて4~5時間孫の面倒を見ています。

その間、娘は買い物や歯医者に行くなど用事を済ませたり、一人の時間を楽しんだりしています。

昨日も、孫の面倒を見るために娘の家に行ってきました。
この頃は歩きも大分しっかりしてきて、1時間程度散歩をするのが孫と私の楽しみになっていました。

今日も、散歩の用意をして出かけようとすると、孫がアンパンマンの人形を連れて行くつもりなのか、手に握って離しませんでした。

アンパンマンは、途中でなくしてしまったらかわいそうだから、おうちに老いていこうね。」

と、語りかけると、しばらく考えるような仕草をして、孫がアンパンマンを手放したのです。

「あれ、私の言うこと分かっているのか」

と、ちょっとびっくりしました。

 

まあ、こんなことがあって無事に家を出発し、ほぼ1時間ほどあちこちを散策した後、近くの公園に立ち寄りました。

滑り台が1台だけ設置されている小さな公園ですが、孫のお気に入りの公園の一つです。

今日も案の定、滑り台に上っては滑り降り、滑り降りてはまた上ることを繰り返してあそんでいました。

まあ、疲れることを知りません、5,6度繰り返したので、

「もう、帰ろうか。ママが帰ってきて、○○君がいないなあ、と心配しちゃうとかわいそうだよね。ママが待ってるから帰ろうね。」

と、声をかけました。すると、何と素直に帰り道の方に歩き出したのです。

『ほー、やっかり言ってることが分かってる。』

週に一度しか会えない孫ですが、会うたびに確実に成長しているいます。

まあ、おそらく1歳5か月なら当たり前の成長なのでしょうが、爺バカな私は、素直にうれしくなりました。

 

やはり、赤ちゃんには早いうちから話しかけることが大切なんだなあ、と実感した出来事でした。