林家の歴史書と言えば「本朝通鑑」。同時期編纂が始まった歴史書に水戸の「大日本史」がある。どちらも、江戸の初期に編纂が行われている(開始されている)。林家の「本朝通鑑」と水戸の「大日本史」には、どのような差違があるのだろうか。
林家の本朝通鑑
林家の「本朝通鑑」は、林家初代の羅山によって、その前進である「本朝編年録」の編纂が始まっていた。
だが、羅山の死や三代将軍家光の死によって、途中で中断された格好になっていた。
この事業を、再開させたのは、息子の鵞峰(がほう)であった。
鵞峰は、幕府の担当者酒井忠清に働きかけ、再開にこぎ着けることに成功する。
働きかけが功を奏し、『本朝編年録 』続編の命が酒井忠清から鵞峰に下されたのは、鵞峰四十五歳の寛文二年 一六六二年十月三日のことであった。
江戸幕府と儒学者(P110)
父、羅山の意思を引き継ぎ『歴史書』である『本朝編年録(まだこのときは、「本朝通鑑」という名になっていない』の続きの編纂ができることになった。
だが、鵞峰は幕府に対し不満たらたらだ。
『続編をつくれ』という命を下しは下が、幕府は十分な編集員の数をそろえなかったようだ。それに対し、鵞峰は起こっている。
さらに、資料もおもうように集まらない。幕府から公家に「資料を提供せよ」とおっ達しを出したが、公家がおいそれと武家の命令など聞くはずもなく、提出してくる資料は、誰でも手に入るレベルのものだけ。
鵞峰は、このことにも腹を立てていた。
羅山もそうだったが、鵞峰も「周りがバカに見える病」があったらしい。
羽林の生質は和柔にして寛厚、敏捷にして頓悟、故に決断は滞らず。然るに学力無 きが故に、余を遇すること懇ろなりと雖も、文字の談に及ばざるは惜しむべきなり。そ の眷遇 手厚くもてなすの易らざるは、是れ生質の美にして故旧を棄てざるか。
或はそれ学問せずと雖も、文学を以て諮詢に益有りと為すものか。
江戸幕府と儒学者(P114)
「羽林(うりん)」というのは、大老の酒井忠清のことだ。忠清の当時の官位は少将。唐の時代、「少将」のことを「羽林」と言ったので、学のある鵞峰は、大老酒井忠清を「羽林」と呼んだわけだ。
鵞峰は、上記で何と言っているかというと、
『羽林(酒井忠清)は、学が無い。だから文学の話はできない。』
と言っている。
位の高い、武士も公家も、全員バカに見えたのだろう。
大恩ある酒井忠清に、分からないとは言え文章に残してしまう人間が鵞峰だった。
こんなことを言っていると知れたら、打ち首者でしょうに…。
また、鵞峰はあまりに熱心に本朝通鑑の編纂にあたるあまり、周りの者を次のように表する様になっていた。
歴史の編纂を無用視し、猿楽(能) や茶道や碁・象戯(将棋)などを無上の娯楽とする ような俗人たちを、鵞峰は 人面畜心 という激しい言葉で罵り、歴史編纂の意義を信じて 自分は自分の道を行くだけだ~
江戸幕府と儒学者(P117)
いくらなんでも、気が張りすぎだ。
肩の力を抜けよ、と声をかけたくなる。
鵞峰の苦労
本朝通鑑を完成させるまでに、7年以上の月日を費やしている。
鵞峰の苦労は並大抵では無かった。
その中でも、一番の苦難は、「最愛の息子の死」だった。
将来を嘱望されていた若き天才、最愛の息子「梅洞(ばいどう)」が24歳で病没してしまう。
流石の鵞峰も、しばらくの間立ち直れなかったという。
それでも、苦難を乗り越え鵞峰は寛文10年(1670年)に「本朝通鑑」を完成させた。
『全てのことをなげうち、「本朝通鑑」完成のために命をかけて戦った日々だった』との本人の回想も、頷ける。
林家の「本朝通鑑」は、どのような歴史史観で書かれたのか
儒教的な歴史観の基本を要約すると、以下になる。
歴史的な世界を支配してい るのは天であり、天の理法を体現して道徳的な仁政を行う為政者は栄え、反対に不道徳な悪政を行う為政者は滅びる。つまり歴史というものは、天の司る道徳的な理法に基づく治乱興亡の跡である。したがって、歴史的事実を直書すれば、そこには言わば鑑のようにおのずか ら君臣の道徳的なあり方が映し出されることになり、結果的に歴史著述からは、君としてど うあらねばならないか、また臣としてどうあるべきかという訓戒を得ることができる。
江戸幕府と儒学者(P117)
この世界は、「天理(道徳)」が定まっている。
従って、「天理(道徳)」に従った政治を行う為政者は栄えるが、不道徳な悪政を行う為政者は滅びるという法則がある。
歴史というのは、「道徳的な為政者」と「不道徳な為政者」が、いれかわり立ち替わり変わっていく後のことだ。
だから、歴史をひもとけば「為政者やその従者」がどう行動すればよいか(道徳的か)が分かる。
そして、歴史から訓戒を学ぶことができる。
これが、儒学的な歴史観で『鑑戒史観(かんかいしかん)』と言われる。
もう一段踏み込んだ、儒学史観『名分史観』
儒教では、「名分」を正すことが重要なテーマになっている。
名分といぅのは、名義と本分の意で、名義と本分とが一致した時に国や社会の秩序は確立されるといぅ思想が名分論である。朱子学な どではとくに父子間の名分や、君臣間の名分が問題にされた。
江戸幕府と儒学者(P118)
つまり、「名分」とは、例えば「父」という名義の存在なら、「父」としての本分(父とは、こういうものだという本来あるべき姿)を実践できたときに、『名義と本分が一致した』ということになり、「名分」が保たれたことになる。
「父」は父らしく、
「子」は子らしく、
「君主」は君主らしく
「臣下」は、臣下らしく
振る舞う。「これが『名分論』」ということだ。
「本朝通鑑」の目指した史観は、本来は「名分史観」であった。「名分に乱れがある政権は、嘘の政権」である、という考え方だ。
水戸家の「大日本史の名分史観」から見た、林家の「名分史観」
この時期に編纂が始まったもう一つの歴史書に、水戸光圀が編纂を始めた「大日本史」がある。水戸家の歴史書も儒学に従って編纂されているので、「名分史観」に沿って編纂されている。
水戸家の「大日本史」には、「三大特筆」という特徴がある。
一は、神功皇后を「帝紀」 に列せず「皇妃伝」に列したことである。仲哀天皇の妃で あった神功皇后は、仲哀天皇没 ら天皇の政務を執ったことから日本書紀 では皇后 でありながら天皇と同列に 神功皇后紀 が立てられたが「大日本史」 では名分を乱すも のとしてこれを否定した。
江戸幕府と儒学者(P127)
水戸学は、名分論を徹底的に追究している。
三大特筆の第一番目は、「神功皇后」を名分論に沿ってどう評価するかという問題。
「日本書紀」では、神功皇后を天皇と同列として扱っている。だが、光圀は、皇后はあくまで皇后であると、「名分」に従って、「帝紀」に載せずに「皇妃伝」に記録した。
水戸学の三大特筆の二番目は、天智天皇の子の大友皇子の扱いについてだ。
大友皇子は、大海人皇子と争って負ける。有名な壬申の乱だ。
この乱で敗北したことで、大友は失意のうちに自害をした。
戦いに敗れた皇子なので、それまでは当然天皇としては扱われていなかった。
だが、水戸の「大日本史」では、「天智天皇の後を継いだという名分は覆せない。よって、天皇として扱うべきとして、『弘文天皇』として「帝紀」に記述した。
さらに三番目は、『「南朝」を正統年、北朝を正統ではない皇統として評価した。』
江戸時代の光圀の時代はもちろん、現在の天皇陛下も北朝の系統だ。
それにもかかわらず、水戸の「大日本史」は、名分論としては、南朝が正統であることは事実であり覆せないと、堂々と主張している。
林家の「本朝通鑑」はこの「三大特筆」をどのように表現したか
林家の「本朝通鑑」も「名分史観」に則って編纂されたはずだが、この三点については「名分論」を厳しく適用していない。
第一の 神功皇后については『 本朝通鑑』凡例に、「女帝の朝に臨むは、牝晨の戒( めんどりが時 を告げるのを戒めること。転じて、女性が権力をふるうのを戒めること)無かるベからず。然る に亦た皇種、これを妄議すべきに非ず。故に共に正統に繫けて、微意をその間に寓するも亦だ焉有り」 と記すように、神功皇后の執政には問題があったとするが、皇族については妄りに議論すべきではないとして、「日本書紀」 と同じように神功皇后を 帝紀 に列するとい う取り扱いをした。
第二の大友皇子については、大友皇子正統論の立場を取ったが、旧史の 扱いを妄りには変更しがたいとして天皇の歴代に数えることはしなかった。しかし、大友皇 子を逆臣に准ずることはせず、壬申の年を天智紀十一年として処理することで大友皇子正統論の微意を寓した。
第三の南北朝並立については、 大日本史 が明確な南朝正統論を主張 したのに対し、南北両朝の帝号と年号を併記して、軽重をつけることなく客観的に処理する という書法を採用し、南朝正統論を打ち出すことは控えた。
江戸幕府と儒学者(P127)
とあるように、
①神功皇后については、「みだりに皇室のことを議論すべきでは無い」として、日本書紀と同じように神功皇后を「帝紀」に書いた。
②大友皇子については、「日本書紀」の記述をみだりに帰るのは善くないので、大友皇子を天皇としては扱わない、だが逆賊という扱いはしない、と書いた。
③南北朝問題については、「南北朝の亭号と年号を併記」して、どちらが正統だということの言及を避けて書いた。
この結果だけを見ると、林家の「本朝通鑑」は、腰砕けのようなイメージを受ける。
だが、水戸の「大日本史」の編纂のトップは水戸光圀であり、大抵のことでは幕府ににらまれない。
それに対して、幕府直属の儒学者の林家の人間の鵞峰は、もし幕府の意向に沿わないものだったら、発刊できないどころか、自分の命さえ危ういことになるだろう。
その編纂者の立場の違いが、内容の差になったのだろうから、ある程度差し引いて評価してあげなければかわいそうだ。
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