inaojiの日記

社会科教師OBの社会科系徒然語り

最後の三河侍・川路聖謨

最後の三河侍・川路聖謨(かわじとしあきら):旗本とは何か

世に御旗本というもの、江戸に生まれ、緒家に尊ばれて人情に通ず他人物。人情の機微に溢れた人こそ、旗本と評されるべき。幕末の偉人、川路聖謨はそういった点で、最後の侍の代表である旗本であった。

幕末期にロシアと対峙した川路聖謨とは、どのような人物だったか

川路聖謨

川路聖謨(かわじとしあきら)は、黒船が次々に日本にやって来た嘉永6年(1853年)ごろ、実質的な全権をもつ幕府の代表者として、ロシア使節団と長崎で交渉した幕臣

『東洋金鴻』の著者。

川路聖謨は、異能の人

享和元年(1801年)4月、日田(大分県)大官所下役の内藤吉兵衛の長男として生まれた。

聖謨がまだ幼少の頃に、一家で江戸に移住している。
12歳の時、川路美房のたっての願いで、川路家に養子に入った。
実務に優れ、18歳で支配勘定出役。
23歳で、旗本格の評定所留役に抜擢。
下級武士としては異例の出世を、若いうちから遂げている。

さらに佐渡奉行、普請奉行、大坂町奉行とトントン拍子で出世を続けた。
嘉永5年(1852年)9月には、幕府の勘定奉行(今で言えば財務省)に取り立てられた。
このとき家禄は500石。海防掛(かかり)も兼任している。

川路聖謨座右の銘

川路の座右の銘としていたのが『艱難汝(かんなんなんじ)を玉にす』。

「山より石を掘り出し、打ち砕きて火にも入れ、水にも入れ、百辛苦をつみて精金となる也。これに同じ。これ我が喜び也」

「孫・子に良き衣着せ、うまきものを与えんとて、人を恵むこと知らぬものは、その子孫、吃人(きつじん・物乞い)・非人のごとくなるか、或いは家断絶すること疑いなし。以上のこと、十人に八・九人は間違いなし。五十年もたてばよくわかる也」

川路聖謨の妻自慢

「わが妻は江戸で、一、二を争う美人でござる」
と、川路は自分の妻を自慢する。

「妻をおいて長崎に来たためか、機会あるごとに妻を思い出しております。何とか忘れることができる、よい方法はござりませぬか。」
嘉永6年(1853年)、ロシア使節団の艦船に幕府交渉団が招かれたとき、その昼食会で川路がロシア側の参加者にこう言った。

川路のこの一言で、難い雰囲気の座は一遍に和んだ。
ロシア使節団の全権大使プチャーチンは、川路のそばまで来て、
「長く妻に会えないことに関して私などは貴公の比ではない。貴公の心をもって私のことを考えてくれたまえ」
と、川路に語ったという。

もちろん、川路は「妻自慢をし、妻に会えないと淋しい」とプチャーチンに語れば、どういう反応が返ってくるかを事前に考えていた。

このあたりが、川路が「異能の人」と言われたゆえんだろう。

「ロシア人は、どういう話をすれば和むのか」について事前情報を調べていたのだ。

人をたらし込むための方法を分析し、実行するタイプの人だったのだろう。

川路の日記を見ると、
「異国人は、妻のことを言えば泣いて喜ぶという」
という事前情報があったと書かれている。

川路聖謨としあきら)の実力にロシアも脱帽

川路聖謨とロシアのプチャーチンの会談は、翌年にも伊豆・下田で行われている。
このとき、「肖像写真を撮影させて欲しい」とロシア側から川路に何度も要請した。

だが川路は、
「生来の醜男(ぶおとこ)、老境に入り妖怪の如くなるを『日本男子なり』など申されると、本朝の美男子は心穏やかではなく、またお国(ロシア)の美人に笑われるのはイヤでござる」
と断っていた。

すると、プチャーチンは、
「ロシアの女性のうちバカは男の善し悪しを論じ、才人は官の善し悪しを論ず。男の美悪を論ずるは愚。ゆえにご懸念に及ばず。」
と言ったという。

プチャーチンのこの一言で、我々後世の人間も川路聖謨の想像写真を見ることができる。「でかした、プチャーチン」と言いたい。

ロシアの文官ゴンチャロフの川路評

「川路を、私たちはみな気に入っていた。(中略)彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論をもって知性をひらめかせたものの、なおこの人物を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の一言一句、一瞥(いちべつ)、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達を顕(あらわ)していた。
と、ロシア側の「渡航記」にゴンチャロフは川路に対する評価を記している。

幕末期の江戸幕府にも優れた人物はいた

江戸幕府が滅びたのは、幕府機構の金属疲労だ、とする見方が根強い。
だが、末期の江戸幕府内の要人にも、優秀な人物は多くいた。
川路聖謨としあきら)も、そういう幕府の才人の一人だった。

まとめ

川路聖謨という名は、学校では教えられない。
だが、間違いなく日本の頭脳の一人だった。
日本は、明治期にロシアと戦果を交えることになる。
当時の一番の敵は、アメリカというより、ロシアだったろう。
その難敵に、川路聖謨は日本を占領させなかった。圧倒的な武力をもつロシアに、ユーモアも交えながら対峙した英雄だった。